『隋書』俀国伝に記された
都の位置情報 (1)
『多元』176号に掲載された八木橋誠さんの論稿「倭国の漢字 ―音読みを探る―」に、『隋書』俀国伝に記された俀国の都の位置に関して、次の見解が示されていました。
〝隋帝が裴清を『俀国に使せしむ』という派遣記事は倭国の都が目的地となるので、その後は壱岐島を経て博多に上陸、盛大な歓迎セレモニーを受けて目的地に(ママ。「到着」が脱落か)したことで長安からの行程は終わるのである。(中略)ところが多元の古代史会議でも未だに裴清が大阪まで赴いたという主張に固執する先学がいて、思い込み持論を展開し、通説と相通じているようにも思える。本文では九州上陸後に「海を渡る」との表現はないので九州島に留まっていたことになるだろう。どこにも「海」や難波津の字もない。仮に瀬戸内海を渡ったとすれば、難波までは途中停泊しながら7~8日要するなど長い航海になる訳であるから、瀬戸内海の島々の描写や各停泊港の様子が全く書かれていないことは有り得ないことではないだろうか。〟
「多元的古代研究会」や「古田史学の会」では、『隋書』俀国伝の都の位置や都への行程記事について諸説が発表されており、論争が続いています。学問は批判を歓迎し、真摯で誠実な論争は研究を深化させます。わたしは古田説(注①)を支持していますが、古田先生も行程や位置の詳細については断定されていませんし、自説の修正も行われていますので、未だ検討途中のテーマということもできます。
学問論争であれば、いずれ真実に向かって論議が最有力説に収斂しますが、その前提として諸説の根拠となる俀国伝の史料事実を正確に把握することが必要です。なかでも論点となっている都の位置については、どのような位置情報が記載されているのかが決め手となります。そこで、当論争テーマに関わる位置情報について、改めて精査することにします。
なお、ここでいう「位置情報」とは『隋書』成立時点(注②)での中国側の認識を意味しており、それが現代日本人の地図情報や歴史認識、あるいは『日本書紀』の記述と一致しているかどうかとは一応別問題です。まずはこの点を峻別して論じるのが、文献史学やフィロロギー(注③)という学問領域の基本姿勢です。(つづく)
(注)
①古田武彦『邪馬一国の証明』ミネルヴァ書房版、265頁に次のように記されている。
〝「対馬国→一支国→竹斯国→秦王国」と進んできた行路記事を、まだここにとどめず、先(軽率なルート比定)の(B)の「又十余国を経て海岸に達す」につづけ、この一文に“瀬戸内海行路と大阪湾到着”を“読みこもう”としていたのである。
しかし、本質的にこれは無理だ。なぜなら、
①今まで地名(固有名詞)を書いてきたのに、ここには「難波」等の地名(固有名詞)が全くない。
②九州北岸・瀬戸内海岸と、いずれも、海岸沿いだ。それなのに、その終着点のことを「海岸に達す」と表現するだけでは、およそナンセンスとしか言いようがない。
ことに①の点は決定的だ。裴世清の「主線行路」は、先の「対馬――秦王国」という地名(固有名詞)表記部分で、まさに終了しているのだ。これに対して、(B)(「十余国」表記)は、地形上の補足説明(傍線行路)にすぎないのだ。だから地名(固有名詞)が書かれていないのである。後代人の主観的な“読みこみ”を斥け、文面自体を客観的に処理する限り、このように解読する以外、道はない。〟
②『隋書』は本紀五巻・志三十巻・列伝五十巻からなる。唐の魏徴と長孫無忌らが太宗の勅を奉じて編纂した。第三代高宗の顕慶元年(656)に完成した。九州王朝の時代に九州王朝(倭国)のことを記した俀国伝は同時代史料であり、九州王朝研究にとって貴重である。
③〝人間が認識したことを再認識する〟という学問。ドイツのアウグスト・ベークが提唱し、村岡典嗣氏が日本に紹介した。文献を対象とした狭義の訳として、文献学と称されることもある。