唐から帰国した「日本国王夫妻」記事
今月の関西例会で谷本茂さん(『古代に真実を求めて』編集部)から発表された〝百済禰軍(でいぐん)墓誌銘の「日本」誤読説〟(注①)によれば、従来説は「百済禰軍墓誌」(678年)銘文中の「于時日本余噍据扶桑以逋誅」の区切り方を誤り、次のように「日本」と続けて読んでしまったと批判しました。
「于時、日本余噍、据扶桑、以逋誅」 〔時に日本の余噍(日本の残党)、扶桑によりて、以て誅を逋(のが)れ~〕
そして前後の文脈から判断して、次の読解が正しいとしました。
「于時日、本余噍、据扶桑以逋誅」 〔この日に、本余噍(百済の残党)、扶桑によりて、以て誅を逋れ~〕
銘文の「于時日本余噍」の「日本」を続けて読み、国名の「日本」と理解したのが従来説ですが、同様の読解が『旧唐書』(中華書局本)でもなされていました。「洛中洛外日記」(注②)で紹介しましたが、それは中華書局本『旧唐書』貞元二十一年(805)条に見える、「日本国王ならびに妻蕃に還る」という記事です。日本国王夫妻(天皇・皇后か)が805年に唐から帰国したという不思議な記事です。原文(中華書局本)の表記は次の通りです。
「至是方釋之。日本國王幷妻還蕃、賜物遣之。」
貞元二十一年(805)条の記事ですから、平安時代の桓武天皇延暦二四年に相当し、桓武天皇と皇后が唐から帰国したことになり、このような記録は日本側史書には見えません。もしかするとこの〝日本国王夫妻〟とは王朝交代後の九州王朝の後裔(注③)かも知れないとも考えましたが、史料根拠がなく、論証が成立しませんでした。
そこで、この記事のことを古田先生に相談したところ、先生はこの難問を見事に解決されました。すなわち、これは中華書局本の誤読、句読点のミス(文章の区切り方の誤り)であり、正しくは「方(まさ)に釋(ゆる)すの日、本国王(吐蕃国王)ならびに妻(め)とり蕃(吐蕃)に還る。」であるとされました。古田先生はこの新読解を「歴史ビッグバン」という小論にされ、『学士会会報』(第816号、1997年所収)で発表しました。
もちろん、古田先生の新読解も検証の対象です。今回の谷本さんによる「百済禰軍墓誌」の新読解に接し、30年前の古田先生との検討会を思い出しました。共に、一見すると国名の「日本」と思われる記事を、「日」と「本」を分けて理解するというものですので、興味深い現象です。古田史学による学問研究は本当に楽しいものです。
(注)
①谷本 茂「『百済禰軍(でいぐん)墓誌銘』に“日本”国号はなかった!」古田史学の会・関西例会、2023年10月21日。
②古賀達也「洛中洛外日記」864話(2015/02/06)〝中華書局本『旧唐書』の原文改訂〟
③八世紀、九州王朝の後裔が、『三国史記』に「日本国」として記されているとする仮説を、次の拙稿で発表した。
古賀達也「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」『古代史徹底論争 「邪馬台国」シンポジウム以後』古田武彦編著、駸々堂、1993年。
同「洛中洛外日記」3055話(2023/06/28)〝30年ぶりに拙論「二つの日本国」を読む〟も参照されたい。