三十年前の論稿「二つの日本国」 (8)
今回は、「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」から、「四、新羅と近畿天皇家」(前半)を転載します。ここでは、九州王朝の後裔を日本国とする『三国史記』新羅本紀には、大和朝廷を倭国と表している事例(哀荘王三年十二月条)があることを紹介しました。すなわち、『旧唐書』の倭国と日本国とは真逆の国名表記が出現するのです。なぜこのような史料情況が発生したのか、理由はよくわかりませんが、不思議な現象です。
【以下転載】
四、新羅と近畿天皇家
それでは『三国史記』に新羅と近畿天皇家との関係を示す記事はないのであろうか。実はそれらしき記事がある。『失われた九州王朝』でも紹介された次の記事だ。
均貞に大阿飡を授け、仮に王子と為し、倭国に質と以さんと欲す。均貞、之を辞す。〈新羅本紀、哀荘王三年(八〇二)十二月条〉
この記事は八〇二年の事件であり、倭国が日本国へと国号変更した後のできごとだ。にもかかわらず、ここには旧国名の「倭国」と記されている。古田氏はこの倭国を九州王朝の後裔のこととされたが、これまでの論証の帰結からすれば事態は逆転する。この倭国こそ近畿天皇家を指し示す事例と考えられるのだ。
『続日本紀』によれば、八世紀後半に至って近畿天皇家は対新羅強硬姿勢をとりはじめる。それは天平勝宝四年(七五二)六月条の記事からも推定できる。この時、新羅から王子金泰廉ら三百七十余名の大使節団が訪れているが、その内容は口頭での外交に留まり、国書を渡すことはなかった。こうした新羅使節の対応に対し孝謙天皇は、今後は新羅国王自ら来朝するか、代理であれば必ず上表文を持参するように申し渡している。いわば、新羅側の国書なき口頭外交を不満としているのだ。また、前節(二、すれちがう国交記事)にて指摘した『三国史記』と『続日本紀』に唯一対応可能な(7)の記事だが、具体的には『続日本紀』天平勝宝五年(七五三)二月条の「従五位下小野朝臣田守を以って遣新羅大使と為す。」という記事と対応しうる。そして、この田守の外交が失敗に終わったことが『続日本紀』天平宝字四年(七六〇)九月条の新羅の国使とのやりとりの中、近畿天皇家側の「小野の田守を派遣したとき、彼の国は礼を欠いた。故に田守は使事を行わず帰還した。」という発言により明らかとなる。他方、こうした外交上の失敗とは裏腹に、あるいはそれを見通した上で、この時期近畿天皇家は新羅との戦争準備を着々と推し進めている。
たとえば、『続日本紀』天平宝字三年(七五九)八月には、大宰帥船親王を香椎廟に派遣して、新羅征伐の状を奉納している。翌九月には諸国に命じて五百艘の船を造営させ、三年以内に新羅を征伐する為とその目的を記している。このような近畿天皇家の圧力を感じてか、天平宝字七年(七六三)二月に新羅は二百十一名からなる大使節団を近畿天皇家に送っている。しかし、そこでも近畿天皇家は「今後は王子か、さもなければ執政大夫を派遣せよ」と強圧的な対応に終始している。こうして新羅と近畿天皇家は抜き差しならぬ緊張関係へと入っていく。しかも、近畿天皇家は渤海とは緊密な友好関係を作っており、新羅は北の渤海と南の近畿天皇家(あるいは九州王朝ともか)の挟撃を受ける危機的な状態に陥ったものと推定される。
【転載おわり】(つづく)