2023年12月11日一覧

第3178話 2023/12/11

城崎温泉にて ―神の鳥と狗奴國―

 今日は城崎温泉で最も源泉に近い「鴻の湯」に浸かりました。塩味がする透明な良い湯でした。現地伝承では、舒明天皇の時代、傷ついたコウノトリが山中の池で湯浴みしているのを見た村人により、温泉が発見されたとのこと。これが史実を反映した伝承であれば、「舒明天皇の時代(629~641年)」とあることから、本来は当時の九州年号「仁王」「僧要」「命長」(注①)によりその年代が伝えられ、後世になって『日本書紀』紀年に基づき、「舒明天皇の時代」とする表記に変えられたものと思われます。

 温泉街を散策していて、コウノトリの本来の意味は「神(こう)の鳥」ではないかと思いつきました。神戸(こうべ)の神(こう)です。この思いつきが当たっていれば、城崎温泉は神様が遣わした鳥により発見されたことになりそうです。

 そんな思いつきを妻と娘に話していて、あることに気づきました。『三国志』倭人伝に見える、卑弥呼の邪馬壹国を中心とする倭国と対立していた狗奴國とは、「神(こう)の国」ではなかったか。倭国と敵対した国であったため、獣偏の「狗」という卑字が用いられたと思われます。従って、本来の国名の意味は「神(こう)の国」ではないでしょうか。古田説によれば、狗奴国は銅鐸圏にあった国ですから、ここ城崎温泉は狗奴国そのものではなくても、位置的にはその勢力範囲内か、あるいは近傍の国だったように思います。倭人伝には傍国(注②)として「鬼(き)國」「鬼奴(きの)國」が見え、城崎(きのさき)地名と関係があるのかも知れません。ちなみに、豊岡市気比(けい)からは大正元年(1912年)に銅鐸四個が出土しています。

 このようなことをつらつらと城崎にて考えていますが、まだ学問的仮説には至らない思いつきですし、先行説があるかもしれません。

 なお、夕食はカニ料理で、これ以上は食べられないと思うほど。カニを食べました。日本近海にカニがいてくれてよかった。この国に生まれてよかったと思いました。カニとご先祖様に感謝です。

(注)
①舒明天皇時代の九州年号(『二中歴』による)。
西暦 九州年号 干支
629 仁王 7 己丑 舒明 1
630 仁王 8 庚寅 舒明 2
631 仁王 9 辛卯 舒明 3
632 仁王 10 壬辰 舒明 4
633 仁王 11 癸巳 舒明 5
634 仁王 12 甲午 舒明 6
635 僧要 1 乙未 舒明 7
636 僧要 2 丙申 舒明 8
637 僧要 3 丁酉 舒明 9
638 僧要 4 戊戌 舒明 10
639 僧要 5 己亥 舒明 11
640 命長 1 庚子 舒明 12
641 命長 2 辛丑 舒明 13
②倭人伝には次の傍国、狗奴国記事がある。
「其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國。此女王境界所盡。
其南有狗奴國、男子爲王。其官有狗古智卑狗、不屬女王。」


第3177話 2023/12/11

律令に遺る多元的「天皇」号 (2)

 今日は、娘の仕事の日程調整ができたので、定年退職して初めての家族旅行です。城崎温泉に向かう特急きのさき5号の車中でこの「洛中洛外日記」を書いています。

 王朝交代(701年)前の七世紀において、九州王朝の天子の下に複数の「天皇」が併存したと考えた理由は、『日本書紀』に見えない天皇名(◎印)を含む次の「天皇」号史料の存在でした。

○用明~推古期(「歳次丙午年」586年) 「池邊大宮治天下天皇」「大王天皇」「小治田大宮治天下大王天皇」 法隆寺薬師如来像光背銘(注①。七世紀第4四半期頃の刻字か)
「大王天皇」という古い表現(大王)を持つ表記から、原文の成立は七世紀前半まで遡るものと思われる。

○敏達天皇(572~585年)「乎娑陀宮治天下天皇」 船王後墓誌(注②。戊辰年、668年成立)
墓誌の成立が七世紀第3四半期であり、当時、近畿天皇家は「天皇」号を九州王朝から許されていたことがわかる。

○推古天皇(592~628年)「等由羅宮治天下天皇」 船王後墓誌(同上)
同上。

○舒明天皇(629~641年)「阿須迦宮治天下天皇」「阿須迦天皇」 船王後墓誌(同上)
同上。

◎650・651年 「越智天皇」 『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』(天平十九年・747年成立) ※『日本書紀』に見えない。
「一帳像具脇侍菩薩八部等卅六像 右袁智天皇坐難波宮而、庚戌年(650)冬十月始、辛亥年(651)春三月造畢、即請者」とあり、「越智天皇」は、652年(壬子)に完成した前期難波宮造営に関わった有力者と思われる。『伊予三島縁起』に「孝徳天皇のとき番匠の初め。常色二年戊申(六四八)、日本国をご巡礼したまう。」という記事があり、伊予国(越智氏の本拠地)から、九州年号の常色二年(684)に難波に番匠(王宮などの造営技術者)を派遣したのが「袁智天皇」ではあるまいか。また、前期難波宮跡から「戊申年」木簡が出土しており、この記事の「常色二年戊申」と関係があるのではないかとする正木裕氏の指摘がある。(注③)

◎661年 「仲天皇」 『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』(同上) ※『日本書紀』に見えない。
同縁起の次の記事に「仲天皇」が見える。
「爾時後岡基宮御宇 天皇造此寺、司阿倍倉橋麻呂、穗積百足二人任賜、以後、天皇行幸筑志朝倉宮、將崩賜時、甚痛憂勅〔久〕、此寺授誰參來〔久〕、先帝待問賜者、如何答申〔止〕憂賜〔支〕、爾時近江宮御宇 天皇奏〔久〕、開〔伊〕髻墨刺〔乎〕刺、肩負鋸、腰刺斧奉爲奏〔支〕、仲天皇奏〔久〕、妾〔毛〕我妋等、炊女而奉造〔止〕奏〔支〕、爾時手拍慶賜而崩賜之」 ※〔〕内は小字。

 ここに見える「後岡基宮御宇天皇」は斉明、「近江宮御宇天皇」は天智とされる。「仲天皇」は自らを「妾」と称していることから、天智の皇后倭姫王とする説を喜田貞吉は唱えている。

 『養老律令』儀制令皇后条に「皇后・皇太子以下、率土の内は、天皇・太上天皇に上表するときには、臣妾名称すること(「臣」ないし「妾」と自称し、続けて自分の名を言う)。対揚(対面して称揚)するときには、名称すること。皇后・皇太子は太皇太后・皇太后に対して、率土の内は三后・皇太子に対して、上啓するときには、殿下と称すること。自称するときには、みな臣妾とすること。」とある。

◎666年 「中宮天皇」 野中寺彌勒菩薩像台座銘(注④) ※『日本書紀』に見えない。
「丙寅年四月大朔八日癸卯開記 栢寺智識之等 詣中宮天皇~」の文字が見える。年代や名前から判断して、先の「仲天皇」と「中宮天衲」は同一人物の可能性がある。

○天武期 「天皇」木簡 飛鳥池遺跡(天武期の層位)出土
同遺跡から天武の子ら「大津皇子」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」(大伯皇女)木簡も出土しており、この「天皇」は天武と解するのが妥当。

○697年 「大八島国所知天皇」「遠天皇祖御世」「天皇御子」「倭根子天皇命」「天皇大命」「天皇朝廷」 『続日本紀』文武天皇即位の宣命

 これら七世紀の「天皇」号史料によれば、近畿天皇家に限らず、天子の臣下としての「天皇」号を称することを九州王朝(倭国)は制度として採用していたのではないかとする仮説(多元的「天皇」の併存)に至ったのです。(つづく)

(注)
①法隆寺薬師如来像光背銘文。
「池邊大宮治天下天皇。大御身。勞賜時。歳
次丙午年。召於大王天皇與太子而誓願賜我大
御病太平欲坐故。将造寺薬師像作仕奉詔。然
當時。崩賜造不堪。小治田大宮治天下大王天
皇及東宮聖王。大命受賜而歳次丁卯年仕奉」
②船王後墓誌銘文。
(表) 「惟船氏故 王後首者是船氏中租 王智仁首児 那沛故 首之子也生於乎婆陁宮治天下 天皇之世奉仕於等由羅宮 治天下 天皇之朝至於阿須迦宮治天下 天皇之朝天皇照見知其才異仕有功勲 勅賜官位大仁品為第」
(裏) 「三殞亡於阿須迦 天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅故 戊辰年十二月殯葬於松岳山上共婦 安理故能刀自 同墓其大兄刀羅古首之墓並作墓也即為安保万代之霊其牢固永劫之寶地也」
③正木裕「前期難波宮の造営準備について」『発見された倭京 太宰府都城と官道』(『古代に真実を求めて』21集)、2018年。
④野中寺彌勒菩薩像台座銘文(異説あり)。
「丙寅年四月大朔八日癸卯開記 栢寺智識之等 詣中宮天皇大御身労坐之時 誓願之奉弥勒御像也 友等人数一百十八 是依六道四生人等 此教可相之也」