古田史学の万葉論 (3)
元暦校本と学問の方法
古田万葉論には際だった特徴があります。『万葉集』を歴史研究の史料として扱うため、同書写本間の異同を調べ、最も原形を保っている写本を採用するという史料批判を最初に行っていることです。これは文献史学では当然の手続きですが、この学問の方法を『万葉集』にも採用されました。そして、元暦校本が最も優れた写本として、研究に使用されたのです。このことが『古代史の十字路』(注①)で次のように記されています。
〝ところが幸いにも、万葉集には「元暦(げんりゃく)校本、万葉集」と呼ばれる、すぐれた古写本が残されている。元暦とは、「一一八四~一一八五」〟平安時代の末だ。万葉のすべてではないけれど、かなりの大部を占める。この元暦校本を中心とする万葉集古写本の原姿、それを徹底して重んずる、これがわたしの基本の立場である。〟同書7頁。
古田先生の古代史の第一著『「邪馬台国」はなかった』(注②)で、『三国志』写本の中で最も原本の姿を留めている紹熙本を採用したことを説明されました。これと同一の学問の方法を『万葉集』でも採用されたのです。そして、『三国志』と『万葉集』の史料性格の違いについて次のように説明しています。
〝三国志の場合、その全体が同一の著者の筆にによって書かれていた。わたしの尊敬する歴史家陳寿がその人である。それ故、その全体を「三世紀の同時代史料」として取り扱うことができた。彼は、三世紀、西晋朝の史官である。魏志倭人伝も、もちろんその中の一篇だった。倭人伝は文字通り、三世紀における同時代史料、いいかえれば「第一史料」の性格をもっていたのである。(中略)
この点、万葉集の場合は、ちがっている。なぜなら、「歌」そのものは、第一史料だ。その作者が作ったもの、“作者の息吹の結晶”とも言うべき直接史料だ。すなわち、同時代史料なのである。歴史学の研究者としてのわたしの目から見れば、それはすぐれた「史料」なのだ。
ところが、歌の「題詞」つまり前書きや歌のあとに伏せられた解説、つまり後書きといったもの、これらはちがう。万葉集が編集された時点、つまり「歌」そのものから見れば「後代」の認識をしめす。つまり、直接史料、ないし第一史料ではなく、「後代史料」ないし「第二史料」なのである。この区別こそが肝心だ。
もちろん、歌の作者自身が「題詞つき」で歌を作ったケースも存在しよう。たとえば、万葉集の後半に多い、大伴家持の歌などはそう感ぜさせられるものが少なくない。
しかし、そのような「見地」が、先立つ多くの万葉集の歌々にもまた“適用”されうる、という保証は全くない。従って、「史料」としての歌を取り扱うための基本条件、それは右にのべたように
(A)歌そのものは、第一史料(直接史料、同時代史料)
(B)前書きや後書きは、第二史料(間接史料、後代史料)
と見なさなければならぬ。〟前掲書8~9頁。
ここに示された学問の方法こそ、古田万葉論の基本をなすものです。残念ながら、古田学派の論者の中には、〝「歌」は史料として採用できるが、「題詞」は信用できない〟と、古田先生の学問の方法を単純化した、不正確な理解も散見されます。第一史料である「歌」が第二史料の「題詞」などより優先しますが、両者間に矛盾がなければ、第二史料もエビデンスとして採用することができますので、留意が必要です。(つづく)
(注)
①古田武彦『古代史の十字路』東洋書林、平成十三年(二〇〇一)。ミネルヴァ書房より復刻。
②古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(一九七一)。ミネルヴァ書房より復刻。