古田史学の万葉論 (4)
―豊後の天香具山―
古田万葉論では、万葉集の「歌」そのものは第一史料であり、その作者が作った直接史料、すなわち同時代史料です。他方、歌の「題詞」つまり前書きや歌のあとに付せられた解説は、万葉集が編集された時点、つまり「歌」そのものから見れば「後代」の認識をしめす「後代史料」ないし「第二史料」です。この基本認識に基づいて、古田先生は従来の万葉学の常識を次から次へとくつがえす新説を発表されました。その中でも際だった新説が天香具山=豊後の鶴見岳説でした。
従来の万葉学では、天香具山とあれば大和飛鳥の香具山のこととして、誰もが疑わなかったと言ってもよいでしょう。ところが次の万葉歌(巻一、二番歌)に見える天の香具山は、とても大和飛鳥の風景とは思えず、かなり無理無茶な解釈が横行していました。
大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鷗(かまめ)立ち立つ うまし国そ 蜻蛉(あきづ)島 大和の国は 《『万葉集』巻一、二番歌》
歌の前文にある「題詞」には、「高市岡本宮に天の下知らしめしし天皇の代 息長足日廣額天皇(舒明天皇)」「天皇、香具山に登りて望国(くにみ)したまふ時の御製歌」とあるため、この歌は舒明天皇の御製とされ、従って大和明日香の歌とされてきました。しかし、大和明日香に「海原」はありませんし、「鷗」も飛んでいません。すなわち、第一史料たる「歌」と後代の第二史料たる「題詞」の内容が矛盾しているのです。そこで、古田先生は先の万葉歌理解の基本的認識に基づいて、「歌」と「題詞」を切り離し、「歌」そのものの内容から、この歌の舞台を豊後の別府湾近辺(旧名は『和名抄』に「海部郡 安萬」とある)とされ、天の香具山を鶴見岳(標高1375m)とする新説に至りました。
その論証の詳細は『古代史の十字路』(注)の第三章「豊後なる『天の香具山』の歌」に記されていますので、是非、お読みください。(つづく)
(注)古田武彦『古代史の十字路』東洋書林、平成十三年(二〇〇一)。ミネルヴァ書房より復刻。