難波京条坊研究の論理 (2)
難波京(前期難波宮)には条坊があったはずとする、わたしの論理的予察に条坊跡の出土事実という実証が後追いしました。「古田史学の会」関西例会で、前期難波宮九州王朝王宮説を口頭発表したのは2007年ですが(注①)、その後、次の条坊跡の発見が続いたのです。ちなみに、最初に条坊跡(当時は用心深く「方格地割」と表現)を発見されたのは高橋工さんで、「古田史学の会」で講演していただいたこともある、大阪を代表する考古学者の一人です(注②)。
1.天王寺区小宮町出土の橋遺構 (『葦火』No.147、2010年)
2.中央区上汐1丁目出土の道路側溝 (『葦火』No.166、2013年)
3.天王寺区大道2丁目出土の道路側溝跡 (『葦火』No.168、2014年)
以上の3件ですが、いずれも難波宮や地図などから推定した難波京復元条坊ラインに対応した位置からの出土で、これらの発見により難波京に条坊が存在したとする見解が有力となりました。とりわけ2の中央区上汐出土の遺構は上下二層の溝からなるもので、下層は前期難波宮の頃のものと判断されており、七世紀中頃の前期難波宮造営に伴って、条坊造営も開始されたことがうかがえます。もちろん、上町台地の地形上の制約から、太宰府や藤原京のような広範囲の整然とした条坊完備には至っていないと考えられています。
条坊跡の出土を受けて、それでも難波京には条坊はなかったとする論者は、次の批判を避けられないとわたしは論じました(注③)。
第一に、天王寺区小宮町出土の橋遺構が復元条坊ラインと一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。
第二に、中央区上汐1丁目出土の道路側溝が復元条坊ラインと一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。
第三に、天王寺区大道2丁目出土の道路側溝が復元条坊ラインと一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。
このように、三種類の「偶然の一致」が偶然重なったにすぎぬ、として、両者の必然的関連を「回避」しようとする。これが、「難波京には条坊はなかった」と称する人々の、必ず落ちいらねばならぬ、「偶然性の落とし穴」です。しかし、自説の立脚点を「三種類の偶然の一致」におかねばならぬ、としたら、それがなぜ、「学問的」だったり、「客観的」だったり、論証の「厳密性」を保持することができるのでしょうか。わたしには、それを決して肯定することができません。(つづく)
(注)
①「洛中洛外日記」154話(2007/12/08)〝難波宮跡に立つ〟。論文発表は、2008年(「前期難波宮は九州王朝の副都」『古田史学会報』85号)。
②高橋工氏(大阪市文化財協会調査課長・当時)「難波宮・難波京の最新発掘成果」。新春古代史講演会2020。1月19日、会場:アネックスパル法円坂(旧大阪市教育会館。難波宮跡の東隣り)。
③古賀達也「洛中洛外日記」683話(2014/03/26)〝難波京からまた条坊の痕跡発見〟
同「条坊都市『難波京』の論理」『古田史学会報』123号、2014年。