難波京条坊研究の論理 (7)
「新春古代史講演会2020」での高橋さん(大阪市文化財協会調査課長・講演当時)の講演で、わたしは次の指摘に注目しました。
(1) 前期難波宮は七世紀中頃(孝徳朝)の造営。
(2) 難波京には条坊があり、前期難波宮と同時期に造営開始され、孝徳期から天武期にかけて徐々に南側に拡張されている。
(3) 朱雀大路造営にあたり、谷にかかる部分の埋め立ては前期難波宮の近傍は七世紀中頃だが、南に行くに連れて八世紀やそれ以降の時期に埋め立てられている。
高橋さんが示された難波京条坊や朱雀大路の造営時期、その発展段階の概要には説得力があります。しかしながら、朱雀大路のグランドデザインや造営過程については、全面的には賛成できません。朱雀大路にかかる谷の埋め立ては八世紀段階以降のものがあるとされますが、他方、遠く堺市方面まで続く「難波大道」の造営を七世紀中頃とする調査結果があり、全ての谷の埋め立ては遅れても、朱雀大路とそれに続く「難波大道」は前期難波宮造営時には設計されていたのではないでしょうか。
わたしはこのことを、2018年2月の「誰も知らなかった古代史」(正木裕さん主宰)での安村俊史さん(柏原市立歴史資料館・館長)の講演「七世紀の難波から飛鳥への道」で知り、「洛中洛外日記」などでも紹介してきました(注)。
通説では、「難波大道」の造営時期は『日本書紀』推古二一年(613)条の「難波より京に至る大道を置く」を根拠に七世紀初頭とされているようですが、安村さんの説明によれば、2007年度の大和川・今池遺跡の発掘調査により、難波大道の下層遺構および路面盛土から七世紀中頃の土器(飛鳥Ⅱ期)が出土したことにより、設置年代は七世紀中頃、もしくはそれ以降で七世紀初頭には遡らないことが判明したとのことです。史料的には、前期難波宮創建の翌年に相当する『日本書紀』孝徳紀白雉四年(653年、九州年号の白雉二年)条の「處處の大道を修治る」に対応しているとしました。
この「難波大道」遺構(堺市・松原市)は幅17mで、はるか北方の前期難波宮朱雀門(大阪市中央区)の南北中軸の延長線とは3mしかずれておらず、当時の測量技術精度の高さがわかります。この精度の高さは、「難波大道」造営が朱雀大路の南北軸に基づいており、そして朱雀大路は前期難波宮南門を起点としていることによります。そうであれば、出土土器の編年が示すように、朱雀大路と「難波大道」の設計・造営が前期難波宮創建と同時期(七世紀中頃)に始まったと考えざるを得ません。
以上のように、高橋さんの指摘(2)と安村さんの「難波大道」下層の土器編年が指し示すように、条坊の基準・起点となる前期難波宮から南に延びる朱雀大路とともに条坊都市も七世紀中頃に造営開始されたと考えるのが常識的かつ学問的判断ではないでしょうか。(おわり)
(注)
古賀達也「洛中洛外日記」1617話(2018/03/01)〝九州王朝の難波大道(1)〟
同「九州王朝の都市計画 ―前期難波宮と難波大道―」『古田史学会報』146号、2018年。
同「洛中洛外日記」2068話(2020/01/23)〝難波京朱雀大路の造営年代(3)〟