2024年02月24日一覧

第3236話 2024/02/24

『開聞古事縁起』に見える噴火記事

 〝紫コラ〟の発生源となった貞観十六年(874)の開聞岳噴火記事は『日本三代実録』(注①)に記録されているので、その年代をピンポイントで確定できました。同様に尾長谷迫遺跡(鹿児島県指宿市)出土暗文土師器の編年に利用された〝青コラ〟(七世紀後半の開聞岳噴火により発生)についても、史料中に遺されていないのかを調べてみました。すなわち、七世紀後半頃と考古学的に編年された年代を、文献史学によりピンポイントで確定できないかと考えたのです。そこで、1988年に発表した論文「最後の九州王朝 ―鹿児島県『大宮姫伝説』の分析―」(注②)で研究した『開聞古事縁起』(注③)を久しぶりに精読しました。

 同縁起は延享二年(1745)の成立ですが、原本は明治二年の廃仏毀釈により、天智天皇の后とされる大宮姫伝承は俗記であるとして焼却され、その略縁起が枚聞神社に伝わっています。同縁起には開聞岳の噴火記事も掲載されており、〝青コラ〟発生の原因となった七世後半の噴火を示す記事があるのではないかと、論文執筆当時に収集した関連史料も含めて、今回、精査したところ、次の記事がありました。

(1) 『三國名勝圖會』巻之二十三 薩摩國 頴娃郡 開聞嶽
神代皇帝紀曰、第十二代懿徳天皇御宇(前510~前477年)、薩摩國開聞山涌出、

(2) 『三國名勝圖會』巻之二十三 薩摩國 頴娃郡 開聞嶽
開門神社縁起曰、第十二代景行天皇二十年(90年)、庚寅十月三日、一夜涌出、此等涌出の説あれども、皆日本書紀に載せざれば、確説に取りがたし、盖此嶽は、荒古より天然存在せしならん、

(3)『開聞古事縁起』
一、開聞嶽湧出之事
(中略)
景行天皇廿年(90年)庚寅冬十月三日之夜、國土震動風雷皷波而彼龍崛怱湧出于此界、屼成難思嵩山。卽其跡成池。今池田之池此也。

(4)『開聞古事縁起』
一、御嶽神火之事
仁王五十六代清和天皇貞観十六(874年)甲午年於ヨリ、當山頂地中、起難思火洞然如却火、灰雨砂降如雨如雪、其震動響百里外由、奏太宰府。府以傅上都、依之如封廟領二千戸、諡正一位爲薩州惣廟一之宮慰、諭神廟。于時貞観十六甲午年七月十七日官符ト云々。乃至中間興廢不委委矣。

 残念ながら青コラに相当する七世紀後半の噴火伝承は見つかりませんでした。こうした開聞岳の噴火記事や伝承は研究者からも注目されていたようですが、史実と見なされたのは(4)の貞観十六(874年)の噴火だけで、懿徳天皇御宇(前510~前477年)と景行天皇廿年(90年)は「信用することが出来ない」と否定されてきました(注④)。しかし、わたしは両伝承は歴史事実を反映した可能性があるのではないかと考えています。(つづく)

(注)
①『日本三代実録』貞観十六年(874)七月二日条に次の開聞岳噴火記事が見える。
「秋七月丁亥朔。戊子二日。地震。大宰府言。薩摩國從四位上開聞神山頂。有火自燒。煙薫滿天。沙如雨。震動之聲聞百餘里。近社百姓震恐矢精。求之蓍龜。神願封戸。及汚穢神社。仍成此祟。勅奉封二十戸。」
②古賀達也「最後の九州王朝 ―鹿児島県「大宮姫伝説」の分析―」『市民の古代』10集、新泉社、1988年。
③「開門古事縁起 全」『修験道史料集Ⅱ 西日本編』五来重編、名著出版、1984年。原本は枚聞神社蔵。
④濱田耕作氏は次の論文で両噴火記事を信用できないとしている。
濱田耕作「薩摩国揖宿郡指宿村土器含包層調査報告」『京都帝国大学文学部考古学研究報告』第6巻、京都帝国大学、1921年。