「東西・南北」正方位遺構の年代観 (1)
昨日の「多元の会」リモート研究会の終了後、参加されていた黒澤正延さんと意見交換を行いました。そのとき黒澤さんから、太宰府条坊都市の造営年代を七世紀初頭以前にできないかとの質問がありました。
太宰府条坊は政庁Ⅰ期と同時期の造営とされ、その暦年は従来の通説では大宰府を大宝律令により定められた地方の役所とするため、創建年代は八世紀初頭とされてきました。しかし、近年では井上信正説(注①)の登場により、藤原京と同時期の七世紀末頃とする説が有力視されつつあります。
わたしは文献史学の研究により、太宰府条坊都市の創建を九州年号の倭京元年(618)(注②)、政庁Ⅱ期の創建を観世音寺が創建された白鳳十年(670)頃(注③)と考えています。従って、大宰府政庁Ⅰ期と条坊都市は七世紀第1四半期から前半にかけての創建・造営となるのですが、考古学的には整地層から出土する須恵器坏Bの編年により、七世紀末頃(第4四半期)とする井上説も有力なのです。そこで、須恵器坏Bの発生が九州王朝(倭国)の王都太宰府で始まり、太宰府出土の初期段階の坏Bは通説の編年より20~30年早く、七世紀前半に遡るとする仮説を提起しています(注④)。
黒澤さんの質問に対して、こうした土器編年の問題があるため、七世紀初頭以前まで遡るとするのはさすがに無理があると説明しました。そして、「東西・南北」正方位の条坊都市の成立を七世紀初頭以前にまで古くするのは、同時代に「東西・南北」正方位遺構の出土例がなく、やはり困難ではないかと述べました。(つづく)
(注)
①太宰府条坊都市の成立は政庁Ⅱ期や観世音寺の創建に先行することを考古学的に証明した井上信正氏(太宰府市教育委員会)の説。
②古賀達也「よみがえる倭京(太宰府) ─観世音寺と水城の証言─」『古田史学会報』50号、2002年6月。
③古賀達也「観世音寺・大宰府政庁Ⅱ期の創建年代」『古田史学会報』110号、2012年。
④古賀達也「太宰府出土須恵器杯Bと律令官制 ―九州王朝史と須恵器の進化―」『多元』167号、2022年。