2024年06月13日一覧

第3303話 2024/06/13

難波宮を発見した山根徳太郎氏の苦難 (2)

 『難波の宮』(学生社、昭和39年)によれば、山根徳太郎さんは発掘費用不足の他に、学問的に有力な批判に苦しんでいたことがわかりました。それは難波宮を大阪市北区の長柄豊崎にあったとする、現存(遺存)地名を根拠とする古くからある説でした。同書にはその説のことが紹介されています。

〝しかしそれには有力な異論が提出されていた。喜田博士の名著『帝都』に
孝徳天皇大化の新宮は、実に此難波宮にて行はれた。精しくは難波長柄豊碕ノ宮と申す。今の豊崎村大字南北長柄は、実に其の名を伝へて居るものであろう。此所に始めて支那の長安城に模した新式の都城が経営された。〟58頁

〝喜田博士の説にしてもそれを支持しようとして唱えられた天坊翁の説にしても、どれも人を納得させることはむずかしい。この種の考え方は、享保十九年に完成した「五畿内志」の所説にもとづいて考案されたもので、天満の北方に長柄の村名のあることに注意をひきおこし、一方、上町台地を都城建設地として狭隘と感じて説を構えられたことであった。〟61頁

〝重圏文系軒瓦にもとづく様式論を最初に考えついた時代には、難波の宮址の所在位置について、学者のあいだに定説はたっていなかったのである。あるいは現大阪城址がそこだといい、あるいは天満橋の北方元長柄村の名称にこだわって立てられた説が強く主張せられた。〟120頁

〝ところで、このように第一〇次の発掘を、その成果からみて記述すると、いかにも易々楽々と仕事がなされたかのようにも思われよう。しかしことは決してそのような、なまやさしいものではない。最近になって聞いた話であるが、世間ではずいぶんわたくしどもの仕事に、あれこれとケチをつけていたのである。あんな所に長柄豊碕の宮があろうはずはない。長柄は明瞭に天満の北で、長柄村の名は古い。人柱で名高いナガラを法円坂町にもっていくなどはムチャだ、とひとかどの先生方が非難していられたのであった。「山根さん、長柄は天満の北が正しいのではないでしょうか」と申された博士もあった。〟183頁

 このように、山根徳太郎さんによる発掘調査で、法円坂から大型宮殿跡が姿を現し始めても、難波長柄豊碕宮を北区の長柄豊崎にあったとする説が有力であったことがわかります。(つづく)