2024年06月23日一覧

第3308話 2024/06/23

孝徳天皇「難波長柄豊碕宮」の探索 (1)

 『日本書紀』孝徳紀に記された難波長柄豊碕宮を大阪市北区の長柄豊崎とした喜田貞吉氏の見解は(注①)、『日本書紀』の史料事実と現存地名との対応に基づいており、山根徳太郎氏による難波宮跡発見までは最有力説であったと思われます。しかし、前期難波宮が九州王朝の王宮(難波宮)であれば、その遺跡は孝徳天皇の難波長柄豊碕宮ではありませんから、喜田説に戻って、大阪市北区の豊崎・長柄を有力候補として探索することにしました。

 そこで、まず当地の豊崎や長柄という地名が古代まで遡ることができるのかを調べたところ、次の二史料に「長柄」が見つかりました。

○『日本後記』嵯峨天皇弘仁三年(812)六月条
「己丑(5日)。遣使造攝津國長柄橋。」

○『日本文徳天皇實録』仁壽三年(853)十月戊辰(11日)条
「攝津國奏言、長柄三國両河、頃年橋梁断絶人馬不通。請准堀江川置二隻舩、以通濟渡。許之。」

 両史料は六国史であり、信頼できる記事です。摂津国に長柄川があり、そこに橋を架けたという記事と、その橋が壊れたため、渡し船を置いたという、九世紀前半~中頃の記事です。両記事に見える長柄という川名や橋名から、九世紀初頭頃に長柄地名があったことを疑えません。この長柄川や長柄という地名の存在は、織田信長と摂津石山本願寺との合戦の布陣絵図『石山古城図』(注②)にも記されており、古代から現代まで継続した地名であることがわかります。また、同絵図には「南長柄」の西に「本庄豊崎」という地名も見え、現代の北区豊崎・長柄と位置関係が一致しています。(つづく)

《追補》本稿執筆後、谷本茂さん(『古代に真実を求めて』編集部)より、『石山古城図』なるものは喜田貞吉氏が偽造物と指摘した難波古地図を基にしており、慎重な取り扱いが必要であること、『住吉大社神代記』に「長柄」地名が見えることなどをご教示いただきました。本稿論旨への影響について再考し、続稿に反映させたいと思います。ご教示に感謝いたします。

(注)
①喜田貞吉著『帝都』に次の見解があることを山根徳太郎氏が『難波の宮』で紹介している。

 「孝徳天皇大化の新宮は、実に此難波宮にて行はれた。精しくは難波長柄豊碕ノ宮と申す。今の豊崎村大字南北長柄は、実に其の名を伝へて居るものであろう。此所に始めて支那の長安城に模した新式の都城が経営された。」

②『石山古城図』国会図書館蔵。赤尾恭司氏(多元的古代研究会・幹事)より同絵図を紹介して頂いた。江戸期成立の絵図と思われる。この絵図の元本は大阪市東淀川区の定専坊(じょうせんぼう)所蔵『石山合戦配陣図』と思われる。