孝徳天皇「難波長柄豊碕宮」の探索 (6)
『日本書紀』に記された孝徳天皇「難波長柄豊碕宮」の地を探索してきたのですが、その基本的な文献史学の考え方(学問の方法)は、〝難波長柄豊碕宮とあるからには、難波(大領域)の中の長柄(中領域)の中の豊碕(小領域)という地名構成を持つ地にある宮〟とする単純で原則的(頑固)な理解です。喜田貞吉氏や古田先生はこの理解に立っています。
喜田氏は大阪市北区にある長柄地域を候補地としましたが、中央区法円坂から出土した列島最大規模の前期難波宮を難波長柄豊碕宮とする理解が定説となったことにより、文献史学による原則的(頑固)な理解が顧みられなくなったようです。その理由は明白で、列島最大規模の宮殿であるからには、列島の最高権力者である近畿天皇家の宮殿と見なさざるを得ないという、一元史観の歴史認識(岩盤規制)に従ったことによります。
他方、古田先生は、福岡市城南区の「難波池」、西区の「名柄川」「豊浜」という類似地名・川名を根拠に、西区の愛宕山(愛宕神社)を難波長柄豊碕宮の候補地とする説を発表しました(注①)。その説の当否を判断するために、わたしは同地を訪れましたが、急峻な山頂にある狭小な愛宕神社を難波長柄豊碕宮(古田説では九州王朝の天子の別宮。本宮は太宰府)の候補地とするのは無理だと思いました(注②)。古田先生との間で論争的対話「都城論」もありましたので、先生の三回忌を終えるのを待って論争内容を公開しました(注③)。わたしの主たる反対理由は次の三点でした。
(1) 「難波長柄豊碕宮」が造営された7世紀中頃は白村江戦(663年)の直前であり、博多湾岸のような敵の侵入を受けやすい所に九州王朝が天子の宮殿(太宰府の別宮)を造営するとは考えられない。
(2) 7世紀中頃の宮殿遺構が当地からは発見されていない。
(3) 近畿天皇家の孝徳が「遷都」したとする摂津難波の宮殿名を、『日本書紀』編者がわざわざ九州王朝の天子の宮殿名に変更して記さなければならない理由がない。本来の名前を記せばよいだけなのだから。
この他にも、「難波池」(城南区)と「名柄川」「豊浜」「愛宕神社」(西区)とでは厳密には同一地域とは言い難く、それらが大領域・中領域・小領域として重なっているわけでもありません。従って、喜田氏の摂津長柄説が最有力と思っています。(つづく)
(注)
①古田武彦「九州王朝論の独創と孤立について」『古代に真実を求めて』12集、明石書店、2009年
②古賀達也「洛中洛外日記」1513話(2017/10/07)〝福岡市西区の愛宕神社初参拝〟
愛宕神社の地を〝見張りのための砦〟としてなら賛同するが、〝天子の別宮〟とするのであれば、天子や官僚、護衛の兵士、その生活を支える人々、そしてその家族など、少なく見積もっても数百人の駐在は必要であろう。その人々の住居や毎日消費する飲料水・食料・燃料をどこからどのようにして誰が運搬したのかという現実的な必用諸条件を考えれば、当地を天子の王宮(別宮)とする理解は困難であり、地名比定に基づく〝空理空論〟との批判を避けられないのではあるまいか。
③古賀達也「古田先生との論争的対話 ―「都城論」の論理構造―」『古田史学会報』147号、2018年。