2024年09月29日一覧

第3356話 2024/09/29

『続日本紀』道君首名卒伝の

        「和銅末」の考察 (5)

 『続日本紀』には〝年号+「末」〟表記を持つ卒伝・薨伝が道君首名を含めて七例(注①)ありましたので、各伝の「○○末」の意味について検討します。

 まず、服部さんが指摘した養老二年(718)四月条の道君首名卒伝(注②)ですが、当該部分は次の通りです。

「和銅末、出爲筑後守、兼治肥後國。」(以下、筑後・肥後での活躍記事が続く)

 和銅年間は八年まで続き、首名が筑後国守に任官したのは和銅六年であり、従って、「和銅末」には同六年が含まれることから、「末」とあっても数年の幅を持ち、古賀のいうような最終年だけを意味しないという批判がなされたわけです。確かに『続日本紀』和銅六年(713年)八月条に「従五位下道君首名為筑後守」とあります。しかし、この批判文を読んで、わたしは服部さんの誤解ではないかと思いました。それは次の理由からでした。

(1) 同卒伝に「和銅末」とあり、「末」の字義からすれば読者は和銅八年のことと理解してしまう。『続日本紀』編纂者が和銅六年(713年)のことと認識していたのなら「和銅中」と書くのではないか。『続日本紀』には「○○中」という用例が少なからずある。

(2) しかも和銅末年に当たる和銅八年(715年)正月条に、「従五位下臺忌寸少麻呂・道君首名並従五位上」との昇進記事があり、従五位上への昇進後に筑後国・肥後国に赴任したのではないか。同年九月には霊亀元年と改元されるので、それまでに赴任したと思われる。

(3) 卒伝には「和銅末、出爲筑後守、兼治肥後國」とあり、この「出爲」という用語(動詞)は、当地に赴任、あるいは、向かっていることを意味するようである(この件、後述する)。なお、『続日本紀』には首名が肥後国守に任官した記事は、この卒伝以外には見えない。当然のこととは思うが、『続日本紀』に全ての役人の任官・昇進記事が書かれているわけではない。このことも後述する。

(4) 首名が筑後国守に任命されたときの位階は従五位下であるが、大・上・中・下とある国のランク(注③)では筑後国は上国であり、『養老律令』官位令の規定によれば、上国の国守の官位は従五位下と定められており、これに対応している。しかし、肥後国は大国であり、国守の官位は従五位上とされており、従五位下のままでは首名が肥後国守を兼任するのは不適切。そのため、和銅八年正月に従五位上への昇進がなされ、それを待って首名は九州に下向したものと思われる。こうした官位令の規定は後に形骸化するが、和銅の頃は守られているようである。

(5) 以上の史料状況から考えると、卒伝の「和銅末(八年・715年)」に筑後国守・肥後国兼任として「出爲」(現地に赴任)したという記事は極めて適切な表現である。

 ここからはわたしの想像ですが、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)へ王朝交代(701年)して十数年後の九州では隼人の反乱が続いており、その最前線付近と思われる肥後の国守に相応しい従五位上の人物が当初見当たらず、従五位下の道君首名に筑後国守だけではなく、肥後国守も兼務させることにしたため、和銅八年正月に従五位上に昇進させたのではないでしょうか。この朝廷の判断が正しかったことは、卒伝の「和銅末、出爲筑後守、兼治肥後國」直後に続けて、現地での活躍がいくつも書かれていることからも頷けます。

 以上のことから、「和銅末」とは字義の通り、「和銅の末、和銅八年」のこととするのが最も穏当で、そう読むのが普通の理解ではないでしょうか。しかも「出爲」の意味や、担当官位などにも矛盾がありません。このように字義通りの普通の理解で読めるのか、他の伝についても検討を続けます。(つづく)

(注)
①卒伝・薨伝中に「○○末」(○○は年号)という用語を持つもの。
❶養老二年(718)四月条 道君首名卒伝
「和銅末」〈和銅8年(715)〉
❷天平神護二年(768)三月条 藤原朝臣真楯卒薨伝
「天平末」〈天平20年(748)〉
❸延暦二年(783)七月条 藤原朝臣魚名薨伝
「天平末」〈天平20年(748)〉
❹延暦四年(785)七月条 淡海眞人三船卒伝
「寳龜末」〈宝亀11年(780)〉
❺延暦四年(785)九月条 藤原種継薨伝
「寳龜末」〈宝亀11年(780)〉
❻延暦七年(788)七月条 大中臣朝臣清麻呂薨伝
「天平末」〈天平20年(748)〉
❼延暦八年(789)九月条 藤原朝臣是公薨伝
「寳龜末」〈宝亀11年(780)〉
※〈〉内の年次はその年号の最終年。
②養老二年(718)四月の「道君首名卒伝」全文。
乙亥。筑後守正五位下道君首名卒。首名、少治律令、曉習吏職。和銅末、出爲筑後守、兼治肥後國。勸人生業、爲制條、教耕營。頃畝樹菓菜、下及鶏☆。皆有章程、曲盡事宜。既而時案行、如有不遵教者、隨加勘當。始者老少竊怨罵之。及收其實、莫不悦服。一兩年間、國中化之。又興築陂池、以廣漑潅。肥後味生池、及筑後往々陂池皆是也。由是、人蒙其利、于今温給、皆首名之力焉。故言吏事者、咸以爲稱首。及卒百姓祠之。
※☆は月偏に屯。豚のこと。
③『延喜式』民部省上によれば、以下の13国が大国、35国が上国、11国が中国、9国が下国とされている。
《大国》
大和国、河内国、伊勢国、武蔵国、上総国、下総国、常陸国、近江国、上野国、陸奥国、越前国、播磨国、肥後国。
《上国》
山城国、摂津国、尾張国、参河国、遠江国、駿河国、甲斐国、相模国、美濃国、信濃国、下野国、出羽国、加賀国、越中国、越後国、丹波国、但馬国、因幡国、伯耆国、出雲国、美作国、備前国、備中国、備後国、安芸国、周防国、紀伊国、阿波国、讃岐国、伊予国、豊前国、豊後国、筑前国、筑後国、肥前国。
《中国》
安房国、若狭国、能登国、佐渡国、丹後国、石見国、長門国、土佐国、日向国、大隅国、薩摩国。
《下国》
和泉国、伊賀国、志摩国、伊豆国、飛騨国、隠岐国、淡路国、壱岐国、対馬国。