王朝交代前夜の天武天皇 (1)
七世紀の第4四半期、飛鳥宮にて近畿天皇家の天武は「天皇」を名乗り、その子供たちは「皇子」を称していたとする、飛鳥池遺跡出土木簡(同時代史料)という最有力エビデンスに基づく論稿を『古田史学会報』に発表しました(注①)。
もし、七世紀における「天皇」号は九州王朝の「天子の別称」とする古田新説に基づくのであれば、同「天皇」木簡の天皇も九州王朝の天子の別称となりますが、そうであれば飛鳥にいた天武は「大王」とでも呼ばれていたのでしょうか。しかし、天武の子供たちは、「大王」や「王」の子を意味する「○○王子」ではなく、「舎人皇子」「大伯皇子」「大津皇(子)」「穂積皇子」と飛鳥池出土木簡にはあることから、父親の天武も「大王」ではなく、「天皇」を称していたと考えざるを得ません。こうした論理性から考えても、「天皇」木簡の天皇を天武のこととする通説は、エビデンスベース(注②)という学問の方法に基づき妥当なものです。同時代出土木簡という最有力エビデンスは、後代史料である『日本書紀』の解釈論よりも優先すること、論を俟ちません。
「天皇」木簡が出土した飛鳥池遺跡の大溝遺構SD1130からは、干支(「庚午年」天智九年、六七〇年。「丁丑年」天武六年、六七七年。「丙子年」天武五年、六七六年)、「評(こおり)」、「五十戸(さと)」表記を持つ木簡も出土しており、「郡」(七〇一年から採用)「里」(天武期後半以降に出現)木簡は見えないので、天武期の前半頃とする年代観を示唆します。また、調査報告書(『奈良文化財研究所学報第七一冊 飛鳥池遺跡発掘調査報告 本文編〔Ⅰ〕─生産工房関係遺物─』奈良文化財研究所、二〇二一年)には遺構の年代を〝溝自体が短期間しか存続しなかったことから、木簡群は短期間に廃棄されたと考えられ、木簡の年代は天武五〜七年を含む数年間に収まると判断できる。〟としています。
飛鳥池遺跡からは「詔」木簡も出土しており、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代前であるにもかかわらず、天武天皇らは飛鳥宮で詔を発するなど、「天皇」に相応しい振る舞いをしていたことも拙論で紹介しました。それは次の木簡です。
《飛鳥池遺跡南地区 SX1222粗炭層》
【木簡番号】63
【本文】二月廿九日詔小刀二口○針二口○【「○半\□斤」】
【木簡説明】天武天皇もしくは持統天皇の詔を受けて小刀・針の製作を命じた文書、あるいはその命令を書き留めた記録であろう。ただし「詔」は「勅旨」と同様、供御物であることを示す語の可能性もある。
この様な木簡研究の知見に対応する文献史学の調査研究を新保高之さんが発表しました(注③)。それは天武紀に見える「詔」の年次毎の出現調査で、その一覧表によれば天武八年(679)から「詔」が増えていることが見て取れました(注④)。
「天皇」木簡の年代が天武五〜七年(676~678)を含む数年間に収まると報告されており、新保さんの「詔」分布調査結果と整合することから、天武は天皇を名のった(名のることを九州王朝から認められた)頃から、飛鳥宮で詔を多発し始めたととらえることができそうです。「天皇」木簡の年代観と『日本書紀』天武紀の「詔」分布の対応は偶然の一致ではないように思われます。これは古田先生が言うところの〝シュリーマンの法則〟、すなわち「考古学出土事実と文献・伝承が一致していればそれはより真実に近い」に適っているのではないでしょうか。(つづく)
(注)
①古賀達也「飛鳥池出土「天皇」「皇子」木簡の証言」『古田史学会報』184号、2024年。
②古田武彦記念古代史セミナー(大学セミナーハウス主催)の実行委員長、荻上紘一氏は同セミナーでの挨拶において、くり返しエビデンスベースの重要性を次のように訴えている。深く留意すべきである。
〝古代史学においては「史実」の解明が基本であり、そのための作業則ち「証明」は論理的、客観的、科学的であり、当然のことながらevidence-basedでなければなりません。〟「古田武彦記念古代史セミナー2024講演予稿集」
③新保高之「東京古田会・読書会〔天武天皇紀下⑩〕」2024年10月26日。
④新保氏作成の一覧表をまとめると、天武紀の「詔」分布は次のようである。
天武二年 3件、同三年 0件、同四年 5件、同六年 1件、同七年 0件、同八年 6件、同九年 1件、同十年 7件、同十一年 6件、同十二年 6件、同十三年 5件、同十四年 3件、朱鳥元年 3件。