2025年03月一覧

第3443話 2025/03/05

唐詩に見える王朝交代の列島 (4)

 「扶桑」「扶桑の東」「扶桑の東の更に東」

 中小路駿逸先生は、唐詩に表れる「扶桑」「扶桑の東」「扶桑の東の更に東」に着目し、それは日本列島に複数の領域(王権)が併存していたことを表していると指摘しました(注①)。その根拠となった代表的な唐詩を『全唐詩』より紹介します。

❶《崔載華に同じて日本の聘使に贈る》劉長卿(710?~785?年)
憐君異域朝周遠 積水連天何處通
遙指來從初日外 始知更有扶桑東 →始て知る更に扶桑の東有ることを
(巻一五〇)

❷《秘書晁監の日本國に還るを送る》王維(699?~759?年)
積水不可極 安知滄海東
九州何處遠 萬里若乘空
向國唯看日 歸帆但信風
鼇身映天黑 魚眼射波紅
郷樹扶桑外 主人孤島中 →郷樹扶桑の外
別離方異域 音信若為通
(巻一二七)

❸《日本の使の還るを送る》徐凝(生没年不詳) 九世紀初頭の詩
絶國將無外 扶桑更有東 →扶桑更に東有り
來朝逢聖日 歸去及秋風
夜泛潮回際 晨征蒼莽中
鯨波騰水府 蜃氣壯仙宮
天眷何期遠 王文久已同
相望杳不見 離恨托飛鴻
(巻四七四)

❹《日本國の僧敬龍の歸るを送る》韋莊(836~910年)
扶桑已在渺茫中 家在扶桑東更東 →家は扶桑の東の更に東に在り
此去與師誰共到 一船明月一帆風
(巻六九五)

 これらは日本国に帰る使者・僧を唐の官人が送る詩ですから、そこに見える「扶桑」「扶桑の東」「扶桑の東の更に東」という地理情報は、日中両国の知識人の共通認識と考えられます。そして、日本国の使者が帰る領域は「扶桑」の東にあるように記され、❹《日本國の僧敬龍の歸るを送る》の場合は「家は扶桑の東の更に東に在り」とあることから、僧敬龍の家は最も東の領域にあるわけです。

 そして、「扶桑」とは「元来、それは太陽がそこから昇る木、またはその木のある場所であろう」と中小路先生はされ、『隋書』俀国伝に見える「日出づる処の天子」の国、すなわち九州王朝(倭国)のこととしました。そうすると、その東にあるのが大和朝廷(日本国)、更にその東にあるのが毛人の国(蝦夷国か、注②)となります。

 このように、唐詩に見える日本列島の姿は、西から九州王朝(扶桑)、大和朝廷(扶桑の東)、蝦夷国(扶桑の東の更に東)であり、七~九世紀(唐代)の多元的古代像に対応しているのです。(つづく)

(注)
①中小路駿逸「唐詩の日本古代史像 ―「扶桑の東」をめぐって―」『日本文学の構造 ―和歌と海と宮殿と―』桜楓社、1983年。
②『旧唐書』日本国伝に次の記事がある。
「東界、北界有大山爲限、山外卽毛人之國。」

【写真】劉長卿、王維、徐凝。


第3442話 2025/03/03

唐詩に見える王朝交代の列島 (3)

 ―扶桑(九州王朝)・扶桑の東(大和朝廷)・扶桑の東の更に東(蝦夷国か)―

古田学派に多大な影響を与えた中小路駿逸先生の唐詩研究の概要は次の通りです。

「七世紀まで、中国歴代の王朝が日本列島の中心的権力と見なし通交相手としてきたのは、九州に都する国であり、その国と、〝より東に都する〟大和朝廷の国との〝交替〟は、唐代にはいってから起こっている。――私の逢着した唐詩の例は、こういう日本古代史像を示している。」『日本文学の構造』(注①)196~197頁

具体的には、唐詩に見える「扶桑」などの詩句の分析を次のようにまとめられました(注②)。

一 「扶桑」、「若木」、「天」、「大荒」、「祖州」、「亶州」、および「蓬莱」と、さまざまなイメージを用いて、日本の地の位置および態様の大体が表現されている。

二 「蓬莱」型以外の五つにおいては、日本の地が東西二つに(唐末期には「扶桑」型において三つに)区分されている。

三 阿倍仲麻呂、空海、橘逸勢、円仁といった、畿内の地に帰ることの明らかな人々の帰着地、すなわち畿内が、日本の地のなかでも西から二つ目の、すなわち「何かの東の更に東」でなく「何かの東」の地域と、明らかに呼ばれている。

四 東海中の既知の地のさらに東に位置するものとして、〝畿内〟の地が知られるという、〝第一の変化〟が起こったのが唐代に入ってのちであること、『旧唐書』の記載に対応するこの変化が日本・唐双方の人間にとって共通の認識であったことは、劉長卿の詩句に最も端的に示されている。

五 「大山」よりもさらに東に日本国の領域がのびているという、〝第二の変化〟は、唐末ごろまでに生じていることが、韋荘の詩句に示されている。この、〝第二の変化〟は『旧唐書』にも見えず『新唐書』にもなお見えぬ事項であり、両『唐書』に用いられた史料よりものちの層に属する、より新しい知識と考えられる。

そして、次の結論に至ります。

「これらが、日本人と中国人の共通の認識として唐詩に示され、かつ中国の史書の記載と対応して矛盾しない日本像なのである。
この日本像が日本国内で八世紀以前に作られた諸書の記載内容と対応して矛盾しないことを、私はすでにいくつもの論考で述べた。」(注③)

この中小路先生が紹介する、唐詩に見える日本列島の姿は、西から九州王朝(扶桑)、大和朝廷(扶桑の東)、蝦夷国か(扶桑の東の更に東)という多元的古代像を示唆しているのです。(つづく)

(注)
①中小路駿逸『日本文学の構造 ―和歌と海と宮殿と―』桜楓社、1983年。
②中小路駿逸「唐詩の日本古代史像・補足 ―阿倍仲麻呂・空海・橘逸勢・円仁・円載らの参与」『追手門学院大学文学部アジア文化学科年俸』一(十三)号、1998年。
③同注②


第3441話 2025/03/02

唐詩に見える王朝交代の列島 (2)

中小路駿逸氏から学んだ「論証とは何か」

 わたしが古田門下に入門した三十歳の頃、古田先生は東京の昭和薬科大学で教授をされており、直接教えを請えるのは年に二度ほどの大阪講演会(市民の古代研究会主催)のときくらいでした。そのため、1987年から大阪の追手門学院大学で文学部教授をされていた中小路駿逸先生(注①)からは、何かと教えていただきました。

 当時、わたしは化学会社に勤務しており、学生時代の専攻が有機合成化学だったこともあり(注②)、まったく異分野の文献史学において、「論証する」とはどういうことなのかさえも知りませんでした。化学の場合、実験により再現性を確認できれば、一応、仮説(想定した反応式や分子構造)を証明したことになり、その実験方法(反応条件)と実験結果(分析機器による測定データ)を提示することにより、化学論文としての最低要件は満たせます。ところが歴史学の場合、再現性試験は不可能ですし、文献(テキスト)をエビデンスとして採用することの当否も不確かです。ですから、古田先生の著書に記された〝目が覚めるような論証と結論〟に感動し、深く同意はできるものの、自ら歴史研究を行うことや論文執筆など、全くやり方がわからなかったのです。

 そこで中小路先生に、「論証するとは、どういうことなのでしょうか。どうすれば論証したことになるのでしょうか」と、恥ずかしながら尋ねてみました。中小路先生の返答は、「ああも言えれば、こうも言える、というのは論証ではありません」というものでした。これはこれで難解な答えですが、このことを理解できるようになるまで十年ほどかかりました。ですから、わたしは古田門下では、あまりできのよい〝弟子〟ではなかったようです。古田先生からもよくしかられました。

 話を戻しますが、中小路先生は中国古典文学にも詳しく、唐詩の研究により、唐の詩人たちは唐代の日本列島に複数の王権が併存すると認識していたことを発表されました(注③)。

 「七世紀まで、中国歴代の王朝が日本列島の中心的権力と見なし通交相手としてきたのは、九州に都する国であり、その国と、〝より東に都する〟大和朝廷の国との〝交替〟は、唐代にはいってから起こっている。――私の逢着した唐詩の例は、こういう日本古代史像を示している。」『日本文学の構造』196~197頁

 この主張は、古田先生の多元史観・九州王朝説と整合するとされました。こうした中小路先生の唐詩研究は、当時の古田学派に多大な影響を与えました。(つづく)

(注)
①中小路駿逸(なかこうじ しゅんいつ)、1932~2006年。京都大学文学部文学科卒(国文学専攻)。明石高専教諭、愛媛大学教授などを歴任し、1987年に追手門大学文学部教授(国文学・国語学担当)に就任。2006年、同大学名誉教授。著書に『日本文学の構造 ―和歌と海と宮殿と―』(桜楓社、1983年)、『中小路駿逸遺稿集 九州王権と大和王権』(海鳥社、2017年)がある。
②久留米高専・工業化学科卒。鳥井昭美研究室でアクリジン関連化合物の合成と反応性について研究した。
③中小路駿逸『日本文学の構造 ―和歌と海と宮殿と―』桜楓社、1983年。


第3440話 2025/03/01

唐詩に見える王朝交代後の列島 (1)

 二月の「古田史学リモート勉強会」(古賀主宰)や多元的古代研究会の「リモート研究会」で、『旧唐書』倭国伝・日本国伝や飛鳥・藤原京出土評制荷札木簡(七世紀後半)などを根拠として、七世紀後半から八世紀にかけての王朝交代期の倭国(九州王朝)と日本国(大和朝廷)の領域について研究発表しました。その結論として、701年の王朝交代によって、直ちに倭国(九州王朝)が滅んだわけではないようだと述べました。発表で使用したパワポより転載します(注①)。

〝【結論】
(1) 『旧唐書』倭国伝・日本国伝に記された両国の記事は、七世紀後半~八世紀の認識(状況)を表している。
(2) 従来、誇大で信用できないとされた倭国の領域「東西五月南北三月」「五十余国」は倭国の公式情報であり、妥当な表現である。
(3) 日本国伝の「日本舊小国、併倭国之地」とは倭国の滅亡(併呑)ではなく、飛鳥・藤原出土荷札木簡が示す領域の律令諸国としての併合。九州島(倭国)は王朝交代後は西海道として大宝律令に組み込まれた。
(4) その為、倭国は大宰府を中心とする西海道として〝半独立〟のような状態がその後もしばらくは続いたようだ。このことを示す史料として、万葉集の筑紫記事(赤尾説)や空海の『御遺告』、『三国史紀』などがある。
(5) この状態を『旧唐書』倭国伝・日本国伝は表しており、倭国伝に倭国の滅亡記事が見えないのはこのことを示唆している。〟

 古田史学の門をたたき、滅亡後の九州王朝研究を続けてきたのですが、当初は、『旧唐書』倭国伝に倭国の滅亡記事が見えないことを不審に思い、空海の遺言に遺された〝唐からの帰国記事「大同二年(807)、わが本国に帰る」の一年差の謎(空海の筑紫への帰国は大同元年)〟に迫った研究(注②)、『三国史記』新羅本紀に記された日本国との国交記事が日本側史料と一致しないことの研究(注③)などを発表し、九州王朝は701年の王朝交代後もしばらくは九州の地で〝半独立〟していたのではないかとしました。

 このような問題意識と研究経緯があり、八世紀の九州王朝の残影についての中小路駿逸先生の唐詩研究の著書(注④)を改めて精読することにしました。(つづく)

(注)
①古賀達也「『旧唐書』倭国伝の領域 ―東西五月行と五十餘国―」多元的古代研究会・リモート研究会、令和七年(2025)2月21日(金)
②古賀達也「空海は九州王朝を知っていた」『市民の古代』13集、新泉社、1991年。
③古賀達也「二つの日本国」『古代史徹底論争』駸々堂出版、1993年。
④中小路駿逸『日本文学の構造 ―和歌と海と宮殿と―』桜楓社、1983年。
同『中小路駿逸遺稿集 九州王権と大和王権』海鳥社、2017年。