2025年03月01日一覧

第3440話 2025/03/01

唐詩に見える王朝交代後の列島 (1)

 二月の「古田史学リモート勉強会」(古賀主宰)や多元的古代研究会の「リモート研究会」で、『旧唐書』倭国伝・日本国伝や飛鳥・藤原京出土評制荷札木簡(七世紀後半)などを根拠として、七世紀後半から八世紀にかけての王朝交代期の倭国(九州王朝)と日本国(大和朝廷)の領域について研究発表しました。その結論として、701年の王朝交代によって、直ちに倭国(九州王朝)が滅んだわけではないようだと述べました。発表で使用したパワポより転載します(注①)。

〝【結論】
(1) 『旧唐書』倭国伝・日本国伝に記された両国の記事は、七世紀後半~八世紀の認識(状況)を表している。
(2) 従来、誇大で信用できないとされた倭国の領域「東西五月南北三月」「五十余国」は倭国の公式情報であり、妥当な表現である。
(3) 日本国伝の「日本舊小国、併倭国之地」とは倭国の滅亡(併呑)ではなく、飛鳥・藤原出土荷札木簡が示す領域の律令諸国としての併合。九州島(倭国)は王朝交代後は西海道として大宝律令に組み込まれた。
(4) その為、倭国は大宰府を中心とする西海道として〝半独立〟のような状態がその後もしばらくは続いたようだ。このことを示す史料として、万葉集の筑紫記事(赤尾説)や空海の『御遺告』、『三国史紀』などがある。
(5) この状態を『旧唐書』倭国伝・日本国伝は表しており、倭国伝に倭国の滅亡記事が見えないのはこのことを示唆している。〟

 古田史学の門をたたき、滅亡後の九州王朝研究を続けてきたのですが、当初は、『旧唐書』倭国伝に倭国の滅亡記事が見えないことを不審に思い、空海の遺言に遺された〝唐からの帰国記事「大同二年(807)、わが本国に帰る」の一年差の謎(空海の筑紫への帰国は大同元年)〟に迫った研究(注②)、『三国史記』新羅本紀に記された日本国との国交記事が日本側史料と一致しないことの研究(注③)などを発表し、九州王朝は701年の王朝交代後もしばらくは九州の地で〝半独立〟していたのではないかとしました。

 このような問題意識と研究経緯があり、八世紀の九州王朝の残影についての中小路駿逸先生の唐詩研究の著書(注④)を改めて精読することにしました。(つづく)

(注)
①古賀達也「『旧唐書』倭国伝の領域 ―東西五月行と五十餘国―」多元的古代研究会・リモート研究会、令和七年(2025)2月21日(金)
②古賀達也「空海は九州王朝を知っていた」『市民の古代』13集、新泉社、1991年。
③古賀達也「二つの日本国」『古代史徹底論争』駸々堂出版、1993年。
④中小路駿逸『日本文学の構造 ―和歌と海と宮殿と―』桜楓社、1983年。
同『中小路駿逸遺稿集 九州王権と大和王権』海鳥社、2017年。