『三国志』
「天柱山高峻二十余里」の論点 (5)
―本来の「天柱山」は六安市の霍山―
今の中国には複数の「天柱山」があります。このことは古田先生も著書で指摘していました(注①)。
「天柱山は中国各地にいくつもあるが、この場合幸いなことに道程の記載があって、はっきりその場所が指定できる。現在中国で出ている地図にも書いてある有名な山で、海抜一八六〇メートルの、関東でいえば国定忠治の赤城山か谷川岳といったところだ。天柱山、高峻二十余里という語から想像するほど高くはない。」『日本古代史の謎』
そのため、『三国志』(魏志張遼伝)に見える「天柱山」を古田先生は『三国志』や『史記』の記述を根拠に、下記の条件を満たす「霍山」(安徽省六安市霍山県。1860m)のこととしました。
❶「霍山」「衡山」「南嶽」の別名を持つ。
❷安徽省潜山県の西北、皖山の最高峰。
❸黄河と揚子江の中間、南京と洞庭湖の中点にある。
❹武帝の巡行記事があるように歴史的にも著名な名山である。
❺大別山脈の最高峰である。
そこで、WEBで安徽省六安市霍山県の「霍山(かくざん)」について調べたところ、次の解説が目にとまりました。
〝南岳山
皖西の名山、南岳山の位置は霍山県城の南2.5㎞、(中略) 原名は天柱山、亦の名は霍山、又、衡山、小南岳と称す。(中略)
我が国最古の意味を説明した専著《尓雅》の「釋山篇」に言う。「大山は小山を囲み、霍。」、「霍山は南岳である。」前段の意味は、大山が小山を囲んでいるということである。後世の歴史書で「霍山」を説明する場合、《尓雅》的な解釈が大半である。また、一致して「霍山」と呼ばれるのは、山西省の霍州近くにある山が「霍山」と呼ばれる以外には安徽省西部の霍山がある。
現代の辞書も「霍山」を説明する際には、上記の二つの注釈を多く引用している。そのため、南岳山もまた霍山と名付けられる。しかし霍山は今では南岳山や他の山を指しているのではなく、行政区域の霍山県を指している。
明末清初の著名な歴史地理学者、顧祖禹の《読史方輿紀要》第26巻には霍山について次のように記載されている。「霍山、県の南五里、本名は天柱山、また南岳山、また衡山とも呼ばれる。文帝は淮南の地を分けて衡山国を立て、この山の名を付けた。
《洞天記》によると、黄帝が五岳を封じた際、南岳衡山が最も遠い地で、潜岳を副にした。舜が南巡狩を行った際、南岳に至る。それが霍山である。漢の武帝は先哲の訓練を考えて、霍山を南岳としたので、故にその神をここで祭った。したがって、南岳山はまた衡山とも呼ばれる。(中略)
1987年に南岳山が省政府により正式に「小南岳風景区」と命名されて以降、「小南岳」という名前が広まった。〟 (『Baidu百科』「南岳山」 ※翻訳ソフトの翻訳結果を大意が取れる程度に修正した。)
このように安徽省六安市霍山県の「霍山」は「南岳山」(「南嶽」と同義)と呼ばれ、天柱山・衡山という旧名を持つと説明されており、地理的位置も先の条件に適っています。他方、3448話で紹介した安徽省安慶市・潜山市の天柱山(標高1489.8m)には、「霍山」という別名は見当たらないようです。
従って、大別山脈にある霍山こそ『史記』や『三国志』に記された本来の「天柱山」とするのが最も有力な理解です。なお、この霍山の最高峰「白馬尖」の標高は1777mとあります(注②)。古田先生が紹介した1860mとは少々異なりますが、いずれでも短里によれば、「天柱山、高峻二十余里」と実測値が対応しているということに違いはありません。(つづく)
(注)
①古田武彦「『邪馬台国』はなかった —その後—」『日本古代史の謎』朝日新聞社、1975年。
②WEB辞書『Baidu百科』「白馬尖」によれば大別山の主峰であり、海抜1777mとある。