2025年03月20日一覧

第3454話 2025/03/20

『三国志』

「天柱山高峻二十余里」の論点 (7)

 ―『水経注』、中国紅軍と霍山―

 今回、「天柱山」の場所や標高調査を行っていて、いろんな知見が得られました。やはり、勉強や研究は楽しいものです。本テーマの最後に、そのことを紹介します。

 『史記』や『三国志』に見える「天柱山」の場所について、他の文献にはどのように記されているのか興味を持ち、六世紀前半成立の『水経注』(注①)の調査中に次の記事を見つけました。

 「『地理志』曰、縣南有天柱山。即霍山也。有祠南嶽廟、音潜、齊立霍州治此。」『水経注』巻三十五 江水

 江水とは揚子江(長江)のことで、その流域の説明として『地理志』という書物を引用し、「県の南に天柱山あり。則ち霍山なり。南嶽廟に祠あり。音は潜(この部分、意味未詳)、齊が霍州を立て、此を治む。」とあります。ですから、天柱山は霍山のことであり、霍州(今の安徽省六安市霍県)にあったとされています。霍県にある霍山は大別山脈中の観光地になっています。『水経注』の記事からも、『史記』や『三国志』に記された天柱山は霍山県の霍山であることがわかります。現在では、同じ安徽省にある潜山市の「天柱山(1489m)」(この山がいつから天柱山と呼ばれるようになったのかは未詳)の方が観光地として有名になっているようですので、歴史研究の際には用心しなければなりません。
もう一つ、面白い発見がありました。六安市にある霍山は、日中戦争において中国共産党軍が立て籠もった〝紅軍発祥の地〟の一つとされていることです(注②)。古田先生は天柱山の場所について、次のように述べていました(注③)。

〝(二) つぎに「十里代」でありながら、例外的に「明晰な実距離」を指定しうる例として、つぎの文がある。

 成(梅成)遂将其衆就蘭(陳蘭)、転入潜山。潜中有天柱山、高峻二十余里。道険狭、歩径裁通、蘭等壁其上。(魏志第十七、張遼伝)

 太祖の命をうけて、長社(河南省長葛県の西)に屯していた張遼が、天柱山にこもった叛徒、陳蘭・梅成の軍を討伐し、これを滅ぼした、という記事の一節である。その天柱山の高さが「二十余里」だというのである。この山の実名は「霍山」(一名、衡山)であり、安徽省潜山県の西北、皖山の最高峰である。〟『邪馬壹国の論理』

 『三国志』の時代も二十世紀も、「天柱山」は軍隊が立て籠もるに適した地であったことがわかります。峻険な山々に囲まれて防衛に適し、水源にも恵まれた地だからこそ、陳蘭・梅成軍も中国共産党軍(紅軍)もこの地を根拠地として、強力な敵軍と戦ったわけです。違うのは、『三国志』では立て籠もった方が敗れ、日中戦争・国共内戦では立て籠もった紅軍が勝利したことです。
古代の短里や天柱山の研究をしていて、近現代史にも通底するテーマや史料に出会えました。これだから歴史研究は面白くてやめられません。(おわり)

(注)
①『水経注』四十巻は、六世紀前半に北魏の酈道元(れきどうげん)が撰述した地理書で、河川の位置や歴史などが詳述されている。その構成は、『水経』という三世紀頃までに成立した簡単な河川誌に、多くの文献の引用と酈道元の注釈が加わったものである。
②WEB『捜狐』「国慶不忘革命先烈,瞻仰霍山烈士陵園」に次の解説がある。
「大別山は鄂豫皖革命の中心地帯であり、紅軍の発祥の地の一つです。大別山の中心部に位置する霍山もまた革命の古き地域で、紅軍の故郷であり、将軍の揺りかごです。これは皖西革命の古い拠点であり、鄂豫皖革命の重要な構成部分でもあり、安徽省の紅色地域の中心です。」 ※鄂は湖北省、豫は河南省、皖は安徽省を指す。
③古田武彦『邪馬壹国の論理』朝日新聞社、1975年。