2025年04月13日一覧

第3472話 2025/04/13

久住猛雄氏の「板石硯」論文の紹介(1)

 弥生時代の硯(すずり、板石硯)の福岡県を中心とする発見が続き、弥生時代の文字使用を示す遺物として注目しています。従来は砥石と判断されていた板状の石製品を再調査すると、硯であることが判明しました。これを発見したのが、福岡市埋蔵文化財センター・文化財主事の久住猛雄(くすみたけお)さんです。本年6月22日の「古田史学の会」主催講演会(注①)では久住さんを講師として、弥生時代の板石硯と当時最大の都市「比恵那珂遺跡群(福岡市)」について講演していただく予定です。

 それに先立ち、久住さんの論文「弥生時代における「板石硯」と文字使用の可能性について」(注②)を再読しています。同論文では『三国志』倭人伝に記された弥生時代の文字文化について考察しており、倭国の文字(漢字)の受容について古田説と同様の見解であり、以前から注目していました。転載します。

 〝3世紀(弥生時代終末期~古墳時代初頭)には、『三国志』の通称「魏志倭人伝」によると、倭女王卑弥呼は魏に「上表」しているし、さらに倭王が「京都(魏都洛陽)、帯方郡、諸韓国」に遣使する場合には、「文書を伝送」し、「賜遣之物」に誤りがないかどうか「皆、津に臨みて捜露す」とあるが、これは何か「目録」のようなものと「賜遣之物」を照らし合わせたと解釈できるし、「文書を伝送し」という記事からは、少なくとも「外交」においては「文字」を使用していたことは明らかではないかと考えるがいかがであろうか。

 この記述の中では、中国王朝(「京都、帯方郡」)との外交だけでなく、「諸韓国」との外交においても、「文書を伝送」していたとされていることも重要である。一方、「魏志倭人伝」には、「使訳の通ずる所三十国」ともあるから、倭王だけでなく倭の諸国も「文書」を伝送したり、「賜遣之物」のやりとり(対外長距離交易)には「目録」や、あるいは取引記録などで文字を使用していた可能性は十分考えられる。

 さらに遡って見てみると、『漢書』地理誌では(紀元前1世紀、弥生時代中期後半頃)、「(倭人は)分かれて百余国となす。歳時をもって来りて献見すると云う」とあるが、「歳時」のたびに「百余国」が「献見」したとすれば、最初に遣使した場合はともかくそれ以降は、外交儀礼上、何らかの「上表」文と、献上品の「目録」を持参するように漢(楽浪郡)側から求められたのではないだろうか?
以上が、少なくとも弥生時代中期後半以降、倭において「外交」および「対外長距離交易」においては、「文字」を使用することがあり得たとする理由であり、前提となる考えである。ただし注意してほしいのは、そのことをもって直ちに「内政」一般において文字を使用していたこと(「文書行政」の開始)を意味しないし、またそのようには考えていないということである。〟

 このようにとても鋭い視点です。しかし、慎重に判断されたものとは思いますが、〝直ちに「内政」一般において文字を使用していたこと(「文書行政」の開始)を意味しない。〟とするのはいかがなものでしょうか。なぜなら、倭人伝には次の記事があるからです。

 「收租賦、有邸閣。國國有市、交易有無、使大倭監之。」

 「租賦を収む」とあるように、「租賦」(祖は穀物、賦は労役)を徴収する制度が記されていることから、徴税・徴発のためには戸籍(文字による記録)が不可欠です。特に労役や徴兵のためには人口や年齢構成などの把握が必要ですから、行政(内政)に於いても文字を使用していたと考えざるを得ないのです。

 更に久住論文には優れた論理的考察が示されています。(つづく)

(注)
①講師と演題は次の通り。会場は大阪公立大学なんばサテライト I-siteなんば。6月22日(日)13:00開場。
久住猛雄 氏 弥生時代における「都市」の形成と文字使用の可能性 ―「奴国」における二つの「都市」遺跡、および「板石硯」と「研石」の存在についてー
正木 裕 氏 伝説と歴史の間 ―筑前の甕依姬・肥前の世田姫と「須玖岡本の王」―
②久住猛雄(福岡市埋蔵文化財課)「弥生時代における「板石硯」と文字使用の可能性について」韓国慶北大学校人文学術院HK+事業団第4回国際学術大会『木から紙へ ―書写媒体の変化と古代東アジア―』発表資料集、2021年。