2025年05月一覧

第3490話 2025/05/31

『古事記』序文の偽書説と古田説

 『古事記』には江戸時代から偽書説がありましたが、編纂した太安萬侶の墓誌が出土したことにより、偽書説は影をひそめました。代わって出てきたのが序文偽書説です。この『古事記』序文(記序)の偽書説は有力な仮説とされ、今でも論争が続いています。記序偽書説の根拠は多岐にわたり、その全てを深く理解しているわけではありませんが、わたしには大和朝廷一元史観の枠内において成立しうるかもしれない仮説のように見えています。ちなみに、古田先生は一貫して真作説に立っておられ、少なくとも偽書説に賛成していませんでした。
古田先生の「古事記序文の成立 ―尚書正義の影響に関する考察―」(注①)では、記序が尚書正義の影響を色濃く受けており、『古事記』そのものにも同影響が見られるとされています。したがって記序が後代に偽作されたとする偽書説に与していないことは明らかです。具体的には、『古事記』の書名が『尚書』と同義であるとする、次の史料状況を指摘しています。当該部分を転載します。

〝(A)書名について(以下正義の引用頁数は東方文化研究所経学文学研究室「尚書正義定本第一」による。)
正義に於て「尚書」なる書名の解説・書の初まりを述べる冒頭の文に於て、
○自今本昔曰[古] (二頁)
○聖賢闡教。[事]顕於言。(一頁)
○書有言之[記] (一頁)
とある。(中略)
則ち尚書は「人君辭誥之典」(尚書正義序)であり、「是君口出言」(一頁)たる所に他の五経との違いがある。字義より言えば尚=本昔=上古=古であり、書=言之記であり、その「言」とは「事」の顕れたものを記したものとなしているのである。此処に於て少くとも結果的には古事記の字義は尚書の字義と一致しているとせねばならぬ、然も此尚書の字義説明の正義の文の直前にある義表と記序の交渉が確定している以上かくの如く尚書の定義が「古」「事」「記」の諸要案より説明してある正義の文は果たして偶然の一致と見るのが自然な解釈であろうか。〟『多元的古代の成立[下]』205~206頁

 このように述べた後、更に記序に見える「序」や「誦習(しょうしゅう)」の字義についての考察が続きます。このように『古事記』の書名さえも尚書正義の影響を受けているとすれば、序文も本文も同一人物の編集と考えるのが自然であり、序文に記された太安萬侶による編纂とする理解が最有力となります。わたしはこの古田先生の理解を支持していますし、わたしの『古事記』序文の研究結果(注②)からも同様の理解に至りました。(つづく)

(注)
①古田武彦「古事記序文の成立 ―尚書正義の影響に関する考察―」『多元的古代の成立――[下] 邪馬壹国の展開』駸々堂出版、1983年。
②古賀達也「『古事記』序文の壬申大乱」『古代に真実を求めて』第九集。明石書店、2006年。


第3489話 2025/05/28

『古事記』序文の駢儷体各種

 『古事記』序文には四六駢儷体(しろくべんれいたい)の他にも字数が異なる各種の駢儷体(対句表現)が見えます。前話で挙げた下記の四六駢儷体と同様の四字・六字からなる対句文を紹介します。
❶ 番仁岐命 初降于高千嶺
❷ 神倭天皇 經歷于秋津嶋
❸ 化熊出川 天劒獲於高倉
❹ 生尾遮徑 大烏導於吉野

 これは序文冒頭付近に見える四六駢儷体で、「出入」と「浮沈」、「洗目(目を洗う)」と「滌身(身を滌[すす]ぐ)」の動詞表現が対句になっています。
❺ 出入幽顯 日月彰於洗目
❻ 浮沈海水 神祇呈於滌身

 下記は四字と五字の駢儷体です。「定境開邦(境を定め邦を開く)」と「正姓撰氏(姓を正し氏を撰ぶ)」、地名の「近淡海」と「遠飛鳥」が対句です。地名中の「近」と「遠」は、文字も反対語の対句としており、見事です。
❼ 定境開邦 制于近淡海
❽ 正姓撰氏 勒于遠飛鳥

 次も四字と五字です。「天時」と「人事」、「蝉蛻」と「虎步」、「於南山」と「東於國」が対句で、天と人・蝉と虎・南と東、それぞれが見事な対比をなしています。これは壬申の乱の様子を表現していますが、わたしはこの対句などを根拠として、「『古事記』序文の壬申大乱」(『古代に真実を求めて』第九集。明石書店、2006)を書きました。
❾ 天時未臻 蝉蛻於南山
❿ 人事共給 虎步於東國

 下記はちょっと異なった対句表現で、四字・七字・五字・六字がそれぞれ二回ずつ繰り返すというものです。「后」「王」、「六合」「八荒」、「二氣之正」「五行之序」、「奬俗」「弘國」などが対句中に用いられています。こうした表現も駢儷体の範疇に入れてよいのかは知りませんが、太安萬侶の才気が為した技ではないでしょうか。
⓫ 道軼軒后 德跨周王
⓬ 握乾符而摠六合 得天統而包八荒
⓭ 乘二氣之正 齊五行之序
⓮ 設神理以奬俗 敷英風以弘國

 下記は序文冒頭に見える四字と七字の駢儷体です。「乾坤初分」と「陰陽斯開」、「參神作造化之首」と「二靈爲群品之祖」が対句ですが、それぞれが天地開闢や国生み神話の故事を表しています。たとえば「參神」は天御中主神・高御産巣日神・神産巣日神を、「二靈」は伊邪那岐命・伊邪那美命を表しています。神話や神名をこうした短文の駢儷体で表現するのですから、本文を熟知していた安萬侶ならではの構文ではないでしょうか。
⓯ 乾坤初分 參神作造化之首
⓰ 陰陽斯開 二靈爲群品之祖

 最後に紹介するのが四字と十一字の対句ですが、十一字ほどの長文ですと、はたして駢儷体と言ってよいのか不安です。「得一」と「通三」、「御紫宸(紫宸に御す)」と「坐玄扈(玄扈に坐す)」、「馬蹄之所極(馬の蹄の極まる所)」と「船頭之所逮(船の頭の逮[およ]ぶ所)」などが対句表現です。このような例を見ると、安萬侶の字数と対句への強いこだわりを感じます。
⓱ 得一光宅 通三亭育
⓲ 御紫宸而德被馬蹄之所極 坐玄扈而化照船頭之所逮

 この他にも序文には駢儷体や対句表現が随所に見られますが、『古事記』本文の説話の知識と漢文の素養がなければ、序文の持つ面白さは半減します。わたしのような漢文・古典の教養が不十分な理系の人間には辛いところです。(つづく)

【写真】太安萬侶墓誌。太安萬侶御神像(田原本町・多神社蔵)。


第3488話 2025/05/26

『古事記』序文の四六駢儷体

 『古事記』序文は四六駢儷体(しろくべんれいたい)という対句表現を駆使した漢文を中心として構成されています。わたしが四六駢儷体に初めて接したのは三十代の頃、空海の遺言書である「御遺告(ごゆいごう)」研究を始めたときのことで、古典や漢文の教養がなければ、文の真意を読み取れず、有機合成化学を専攻したわたしにはとても難儀な研究でした。漢字辞典を片手に七転八倒しながら、「空海は九州王朝を知っていた ―多元史観による『御遺告』真贋論争へのアプローチ―」(『市民の古代』13集、新泉社、1991年)を執筆したものです。
この四六駢儷体とは四字と六字からなる対句の漢文なのですが、古事記序文には随所にこの技巧が使われています。たとえば次のような文です。

❶ 番仁岐命 初降于高千嶺
❷ 神倭天皇 經歷于秋津嶋
❸ 化熊出川 天劒獲於高倉
❹ 生尾遮徑 大烏導於吉野

 ❶番仁岐命(ニニギの命)と❷神倭天皇(神武天皇)、❶初降・于高千嶺と❷經歷・于秋津嶋が対句になっています。❸化熊出川(化熊、川に出でる)と❹生尾遮徑(生尾、徑(みち)を遮(さえぎ)る)、❸天劒獲於高倉(天劒を高倉に獲て)と❹大烏導於吉野(大烏は吉野に導く)も対句になっています。
これらの場合、四字・六字に整えるために神武天皇のことを「神倭天皇」と表記していますが、序文末尾に見える上巻・中巻・下巻の説明文には、本文と同じ「神倭伊波禮毘古天皇」と短縮せずに記しています。「番仁岐命」も同様で、四六駢儷体にするために、本文にある「日子番能邇邇藝命(ひこほのににぎのみこと)」「天津日子番能邇邇藝命」「天津日高日子番能邇邇藝命」を短縮し、なぜか漢字も変えて四文字にしたものです。

 このように安万侶は駢儷体を駆使して見事な漢文による序文を作成しています。古田先生の研究によれば、この序文は尚書正義の影響を受けていることは明らかですが、安万侶の漢籍の教養がうかがえるのではないでしょうか。(つづく)

【写真】太安万侶と空海


第3487話 2025/05/25

『古事記』序文研究の思い出

 古田史学の学徒にはよく知られていることですが、古田先生の事実上の処女論文は「古事記序文の成立 ―尚書正義の影響に関する考察―」でした。昭和二十年、東北大学文学部、日本思想科内部の研究会での口頭発表が、当時のまま集約され、『多元的古代の成立[下] 邪馬壹国の展開』(駸々堂出版、昭和五八年)に採録されています。

 同論文の主旨は『古事記』序文は、その文体や思想性に尚書正義の影響を色濃く受けており、それは本文にも及んでいるとするものです。このレベルの研究を古田先生は十八歳の時になされていたことに驚いたものでした。また、文体も雅文とも言うべきもので、わたしの国語力ではくり返し精読しなければ正しく理解できないものでした。その為か同論文を誤読した論者と、三十五年ほど前に、当時流行していた〝ワープロ通信〟上で論争したことなどを思い出しました。

 その後、わたしも『古事記』序文の研究を続け、「『古事記』序文の壬申大乱」(『古代に真実を求めて』第九集。明石書店、2006)をようやく発表することができました。(つづく)

「『古事記』序文の壬申大乱」


第3486話 2025/05/19

九州王朝のお姫様(プリンセス 九州)

 半世紀にわたる九州王朝研究の中で、特筆すべき事件がいくつかありました。古田先生から折に触れてお聞きしたことですので、わたしの記憶が確かなうちにご紹介しておきます。その一つが、九州王朝の御子孫との出会いです。

 古田先生の『失われた九州王朝』を読まれたMさん(福岡県八女市)が、「九州王朝」とはわが家の先祖のことではないかと気づかれ、一族の同意の下、その代表として古田先生の講演会に参加し、講演会後の懇親会で、〝M家は「九州王朝」の子孫の家系です〟と名乗り出ました。わたしも何度かM家を訪問し、家系図『草壁氏系図』(M家本)を拝見しました。筑後国一宮である高良大社(久留米市)のご祭神、高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)を祖先とする系図で、近代まで書き継がれています。同類の系図は複数ありますが、M家本は比較的正確に伝えられており、研究にあたっては重視すべきテキストです。

 わたしは高良玉垂命が九州王朝の王家とする論文を発表したことがあり、古田史学入門当初から九州王朝末裔の調査研究をテーマとしてきました。例えば次の論文があります。

「最後の九州王朝 ―鹿児島県『大宮姫伝説』の分析―」『市民の古代』10集、新泉社、1988年。
○「九州王朝の末裔たち ―『続日本後紀』にいた筑紫の君―」『市民の古代』第十二集、新泉社、1990年。
「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。

 Mさんには娘さんがおられ、京都でお会いしたこともあります。世が世であれば、このお嬢さんは九州王朝の皇女であり、感慨深いものでした。そういえば、〝プリンセス トヨトミ〟という大阪を舞台とした映画がありました。豊臣秀吉の子孫が大坂夏の陣のときに陥落した大坂城から脱出し、その代々の子孫を「大阪国」の人々が秘密裏に守り続け、その末裔(女子)が「姫」として現代社会を生きていくというあらすじです。わたしたち九州王朝説支持者にとっては、Mさんのお嬢さんは系図研究によれば〝プリンセス 九州〟のお一人となるのかもしれません。『草壁氏系図』の本格的な研究にも取り組みたいと願っています。


第3485話 2025/05/17

九州王朝の采女制度

 本日、 「古田史学の会」関西例会が大阪市中央会館で開催されました。6月例会の会場は東成区民センターです。

 例会の司会を担当されている上田武さん(古田史学の会・事務局)から九州王朝の采女制度の痕跡として、『続日本紀』大寶二年四月十五日条の記事「筑紫七国と越後国に命じて、采女・兵衛を選び任命し、貢進させた。ただし、陸奥国は除外した。」を紹介。同テーマは以前にも関西例会で、どなたかが発表された記憶がありますが、今回の発表は『続日本紀』や『養老律令』の采女記事などを根拠に論じたもので、注目されました。

 九州王朝(倭国)の采女制度の確かな史料根拠として『隋書』俀国伝の記事「王妻號雞彌。後宮有女六七百人。」があります。おそらくこの「後宮」は後の「中宮」のことではないかと推測しています。王朝交代後の大和朝廷(日本国)も大宝律令により采女制度を継承し(①)、薩摩・大隅を除く「筑紫七国」と蝦夷国(陸奥国・出羽国)に隣接する越後国からも采女貢進の命令を出すに至ったものと思われます。九州王朝史復元のためにも、当研究の進展が期待されます。

 5月例会では下記の発表がありました。発表希望者は西村さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔5月度関西例会の内容〕
①『記紀』及び『続紀』等の根本史料について (東大阪市・萩野秀公)
②旧・新唐書の倭国・日本国について ―統合・被統合の矛盾を解明― (姫路市・野田利郎)
③百済三書の考察の見直し (茨木市・満田正賢)
④九州にいた卑弥呼が手にした初期三角縁鏡 その2 (大山崎町・大原重雄)
⑤『続日本紀』の兵衛・采女記事について (八尾市・上田武)

◎会務報告 (古賀達也)
❶6/22(日)会員総会・記念講演会の受付協力要請
❷秋の出版記念東京講演会の状況報告
❸福岡市講演会(九州古代史の会主催)で古賀(7/05)・正木(7/26)が講演
❹その他

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
06/21(土) 10:00~17:00 会場 東成区民センター

※6/22(日)は会員総会・記念講演会(会場:I-siteなんば・大阪公立大学なんばサテライト)

(注)『大宝律令』後宮職員令により制度化されたと一元史観の通説では考えられているが、『隋書』俀国伝の「後宮」記事から、大和朝廷に先行する九州王朝律令に定められていたのではあるまいか。


【写真】奈良市采女神社・猿沢池で8/15に行われる采女祭。


第3484話 2025/05/13

『三国志』夷蛮伝の国名表記ルール

『三国志』倭人伝の卑弥呼が都した国名は原文通り邪馬壹国とするべきで、ヤマトと読みたいがために原文改訂した「邪馬臺(台)国」とするのは否であるとした邪馬壹国説こそ、古田史学発祥の原点であり、古田先生のフィロロギーを中心とした文献史学の方法に基づいた結論であることはご存じの通りです。東京大学の『史学雑誌』に掲載された古田先生の論文「邪馬壹国」(注①)は、その年の古代史論文で最も優れたものと専門家から高く評価され、後に朝日新聞社から出版された『「邪馬台国」はなかった』(注②)は〝洛陽の紙価を高からしめた〟と称されるほど版を重ねました。

最近、この邪馬壹国説について、古田武彦支持者のなかに通説の「邪馬臺(台)国」を是とする意見があることを知り、よい機会でもあり、邪馬壹国成立の論点や、古田先生と反対論者との論争史をあらためて振り返っています。そのようなおり、古田史学の会・会員の茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集部)から〝『三国志』夷蛮伝の国名表記ルール〟についてのメールが届きました。古田説に基づき、わかりやすく要点をリストにしたもので、研究にも役立ちそうです。メールから一部転載します。

【以下、転載】
先生も「まとめ」てくれてはいなかったように思いますが、みなさんの議論で「当然のこと」としてスルーされているのか、夷蛮の(中国語を母語としない国の)国名の付け方に関する一般的なルール、という論説がないように思います。誰でも分かり、異存のなさそうなルールには適用序列があります。ルールは

1)出来るだけ発音が現地国名を写すような漢字群で考える
2)その中から国のイメージや性格を表わす用字を考える
3)イメージには当初から「夷蛮」という蔑んだ意味が含まれている
4)イメージを優先したいときは、発音を少々犠牲にすることもある
5)政治的に対立すると、さらに発音を崩しても侮蔑的な字を当てる
6)夷蛮の国が漢字に習熟して国名を自称しても、中国側の呼称が優先される
7)夷蛮の国の自称を採る場合でも、音に従い用字まで受入れることは少ない
【転載おわり】

(注)
①古田武彦「邪馬壹国」『史学雑誌』78-9、1969年。
②古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(1971)。ミネルヴァ書房より復刻。


第3483話 2025/05/07

八幡書店・武田社長との対談録

 八幡書店から刊行する『東日流外三郡誌の逆襲』に収録する、武田社長との対談録の原稿が先日届き、校正追記して送り返しました。A4版で40枚の原稿となり、大変な作業でしたが、その甲斐あって面白い対談録になりました。

 和田家文書の信頼性や偽書の定義など、武田社長とわたしの見解の差なども随所にあらわれており、読者にも楽しんでいただけるものと思います。一言でいえば、和田家文書を文献史学の視点から研究するわたしと、伝承文学として捉えようとする武田社長との差異といってもよいかもしれません。ただ、偽作説に対する批判や憤りは共感しており、とても楽しく有意義な対談録になりました。校正に当たっては、そうした会話体の雰囲気を損なわないよう、かつ読者が理解しやすいような修正にとどめました。

 その後も武田社長から毎晩のように内容確認や相談の電話が続いています。後世に残す一冊にしようとする熱意が感じられ、わたしも同じ気持ちですので、連日、初校ゲラの修正を行っています。かなりの修正件数となり、発行を少し遅らせてでもゲラ校正作業を一回増やす必要を感じています。

 刊行後、東京や青森で出版記念講演会を行う予定です。武田社長は青森の講演会にも参加したいとのことでした。本を世に出すにあたり、執筆者と版元の情熱と息が合うことの大切さを改めて知ることができました。NHK大河ドラマ「べらぼう」の〝蔦重〟の気持ちが少しはわかったような気がします。

『東日流外三郡誌の逆襲』構成
●まえがき
•『東日流外三郡誌』を学問のステージへ 古田史学の会 代表 古賀達也
•『和田家文書研究のすすめ』 古田武彦と古代史を研究する会 会長 安彦克己
•『東日流外三郡誌の逆襲』の刊行に寄せて 古田史学の会・仙台 原 廣通
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●目次
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プロローグ

第1章 東日流の新時代を拓く 弘前市議会議員 石岡ちづ子
第2章 和田家文書を伝えた人々 秋田孝季集史研究会 会長 竹田侑子
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第一部 真実を証言する人々

第3章 『東日流外三郡誌』真作の証明 ―「寛政宝剣額」の発見― 古賀達也
第4章 真実を語る人々 古賀達也
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第二部 偽作説への反証

第5章 知的犯罪の構造 ―偽作論者の手口をめぐって― 古賀達也
第6章 実在した「東日流外三郡誌」編者 ―和田長三郎吉次の痕跡― 古賀達也
第7章 伏せられた「埋蔵金」記事 ―「東日流外三郡誌」諸本の異同― 古賀達也
第8章 和田家文書に使用された和紙 古賀達也
第9章 和田家文書裁判の真相 付:仙台高裁への陳述書2通 古賀達也
第10章 「東日流外三郡誌」の証言 ―令和の「和田家文書」調査― 古賀達也
第11章 新・偽書論 「東日流外三郡誌」偽作説の真相 日野智貴
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第三部 資料と遺物

第12章 石塔山レポート 秋田孝季集史研究会
第13章 役の小角史料「銅板銘」の紹介 古賀達也
第14章 和田家文書の戦後史 古賀達也
第15章 和田家文書デジタルアーカイブへの招待 藤田隆一
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第四部 和田家文書から見える世界

第16章 宮沢遺跡は中央政庁跡 安彦克己
第17章 二戸天台寺の前身寺院「浄法寺」 安彦克己
第18章 中尊寺の前身寺院「仏頂寺」 安彦克己
第19章 『和田家文書』から「日蓮聖人の母」を探る 安彦克己
第20章 浅草キリシタン療養所の所在地 安彦克己
第21章 浄土宗の『和田家文書』批判を糺す —金光上人の入寂日を巡って— 安彦克己
第22章 大神神社の三つ鳥居の由来 秋田孝季集史研究会 事務局長 玉川 宏
第23章 田沼意次と秋田孝季in『和田家文書』その1 皆川恵子
第24章 秋田実季の家系図研究 冨川ケイ子
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○巻末特別対談 東日流外三郡誌の逆襲 八幡書店 社長 武田崇元・古賀達也
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あとがき 謝辞に代えて ―冥界を彷徨う魂たちへ― 古賀達也


第3482話 2025/05/06

奈良新聞読者への

 「列島の古代と風土記」プレゼント企画

 「奈良新聞」4月29日版に、「列島の古代と風土記」読者プレゼント企画が掲載されました。同書は古田史学の会が『古代に真実を求めて』28集として発行したもので、同新聞社に本会から毎号贈呈しているものです。奈良県民はその土地柄からか歴史に関心が深い方が多く、古代大和史研究会(原幸子代表)主催による正木裕さんを講師とする古代史講演会は盛況です。
同紙には「列島の古代と風土記」について、次のように紹介しています。

 「古田史学の会が、古田史学論集『古代に真実を求めて』の最新第28集「列島の古代と風土記」(古田史学の会編、明石書店刊、税込み2420円)=写真=を本誌読者3人に。

 第28集の特集テーマは「列島の古代と風土記」で、風土記・地誌が語る古代像を、多元史観・九州王朝説の視点から見る。故古田武彦氏の風土記論を参照しつつ、風土記に記された倭国(わこく)の事績を検討し、卑弥呼(ひみこ)の墓の所在や羽衣(はごろも)伝承など、各地に残された謎や仮説の真実に迫る論考9編を収録する。このほか一般論文3編を収録。」

 ちなみに、来年発行予定の『古代に真実を求めて』29集の特集テーマは、ご当地の藤原京や太宰府・難波京などの古代都城をとりあげます。投稿締切は本年九月末日です。投稿規定は「列島の古代と風土記」末尾に掲載しています。ふるってご投稿ください。


第3481話 2025/05/01

志賀島の金印発見の経緯記した史料

 本日の読売新聞 WEB版に興味深い記事がありました。志賀島で金印が発見されて福岡藩に納められるまでの経緯が記された文書「金印考文」を、作成者の子孫にあたる東大寺の森本公誠長老が所蔵しているというもので、その文書には、1784年に農民の甚兵衛が田んぼで発見し、福岡藩主の黒田家に献上したという内容が記されているとのことです。

 他方、そうした通説とは異なる口碑伝承が当地には伝えられており、古田先生も調査されていました。それは、金印は糸島市の細石神社に代々伝わってきたもので、何らかの事情により福岡藩にわたったというものです。古田先生の調査によれば、発見者とされる甚兵衛という人物の実在を確認できないことと、志賀島叶の崎には弥生時代の遺構が発見されておらず、甚兵衛により発見されたという経緯も怪しく、細石神社や当地に伝えられてきたという伝承の存在を軽視できないということでした。

 今回のニュースによれば、従来説の信憑性が高まることになり、このテーマは引き続き検討が必要です。下記の「洛中洛外日記」などでも複数の現地伝承について触れていますので、ご覧下さい。

「古賀達也の洛中洛外日記」
806話 2014/10/19 細石神社にあった金印
1337話 2017/02/14 金印と志賀海神社の占い
1776話 2018/10/25 八雲神社にあった金印
1781話 2018/11/04 亀井南冥の金印借用説の出所
『古田史学会報』139号、2017年 金印と志賀海神社の占い

【以下、読売新聞 WEB版から転載】
三つの石に箱のように囲まれて…
「金印」発見の経緯記した史料、東大寺長老が所蔵

 江戸時代に福岡・志賀島(しかのしま)で国宝の金印が発見されて福岡藩に納められるまでの経緯が記された文書「金印考文」を、作成者の子孫にあたる奈良・東大寺の森本公誠長老(90)が所蔵している。子孫にあたる家などに伝えられたとみられ、貴重な資料として研究者が注目する。(奈良支局 栢野ななせ)

 金印は、約2.3センチ四方の印面に篆書(てんしょ)体で「漢委奴國王(かんのわのなのこくおう)」と刻み、つまみ部分の「鈕(ちゅう)」は蛇をかたどったとされる。1784年に農民の甚兵衛が田んぼで発見し、福岡藩主の黒田家に献上されたという。1954年に国宝に指定され、78年に福岡市に寄贈された。

 金印考文は、発見から約20年後の1803年に福岡藩の学者・梶原景熙(かげひろ)が記した史料。〝金印は三つの石に箱のように囲まれて埋められていた。鑑定で黄金の印であると判明したため郡奉行に伝え、福岡藩主が実見した。金印は蔵に納め、甚兵衛は褒美を受け取った〟などと記されている。福岡市博物館によると、文書は複数あり、志賀島の旧家などに伝わったと考えられる。島の地図が添えられたものと地図のないものの大きく2系統に分けられるという。

 森本長老が所蔵する文書は縦37.7センチ、横50.5センチ。長老の祖母が梶原家出身で、長老が30年ほど前、おじから文書を引き継いだ。金印発見の経緯や「印を押し、鈕の形を図に写した」という記述、島の地図、金印と大きさが一致する「漢委奴國王」の印影がある。蛇の細かい文様や金印のわずかな欠損まで描き表した図も添えられている。

 同博物館の朝岡俊也学芸員は「(景熙の)自筆かどうかの判断は難しいが、金印考文の中でも、書いた本人の一族に伝えられているという点で貴重だと言える」と説明。大阪市立美術館の内藤栄館長(芸術学)は「手元に金印があったとすれば、実際に押し得たかもしれない。実物を写し取らなければ、図もこれほど細部まで描けないだろう」と指摘する。森本長老は「文書とともに石が伝えられたが、戦争の混乱で失われたと聞く。もしかすると(文書に記されている)金印を囲んでいた石だったのかもしれない」と話している。

 金印は、大阪市立美術館で開催中の「日本国宝展」(読売新聞社など主催)で7日まで展示されている。

【写真】森本長老が所蔵する金印考文。志賀島の金印。