2025年05月01日一覧

第3481話 2025/05/01

志賀島の金印発見の経緯記した史料

本日の読売新聞 WEB版に興味深い記事がありました。志賀島で金印が発見されて福岡藩に納められるまでの経緯が記された文書「金印考文」を、作成者の子孫にあたる東大寺の森本公誠長老が所蔵しているというもので、その文書には、1784年に農民の甚兵衛が田んぼで発見し、福岡藩主の黒田家に献上したという内容が記されているとのことです。

他方、そうした通説とは異なる口碑伝承が当地には伝えられており、古田先生も調査されていました。それは、金印は糸島市の細石神社に代々伝わってきたもので、何らかの事情により福岡藩にわたったというものです。古田先生の調査によれば、発見者とされる甚兵衛という人物の実在を確認できないことと、志賀島叶の崎には弥生時代の遺構が発見されておらず、甚兵衛により発見されたという経緯も怪しく、細石神社や当地に伝えられてきたという伝承の存在を軽視できないということでした。

今回のニュースによれば、従来説の信憑性が高まることになり、このテーマは引き続き検討が必要です。下記の「洛中洛外日記」などでも複数の現地伝承について触れていますので、ご覧下さい。

「古賀達也の洛中洛外日記」
806話 2014/10/19 細石神社にあった金印
1337話 2017/02/14 金印と志賀海神社の占い
1776話 2018/10/25 八雲神社にあった金印
1781話 2018/11/04 亀井南冥の金印借用説の出所
『古田史学会報』139号、2017年 金印と志賀海神社の占い

【以下、読売新聞 WEB版から転載】
三つの石に箱のように囲まれて…
「金印」発見の経緯記した史料、東大寺長老が所蔵

江戸時代に福岡・志賀島(しかのしま)で国宝の金印が発見されて福岡藩に納められるまでの経緯が記された文書「金印考文」を、作成者の子孫にあたる奈良・東大寺の森本公誠長老(90)が所蔵している。子孫にあたる家などに伝えられたとみられ、貴重な資料として研究者が注目する。(奈良支局 栢野ななせ)

金印は、約2.3センチ四方の印面に篆書(てんしょ)体で「漢委奴國王(かんのわのなのこくおう)」と刻み、つまみ部分の「鈕(ちゅう)」は蛇をかたどったとされる。1784年に農民の甚兵衛が田んぼで発見し、福岡藩主の黒田家に献上されたという。1954年に国宝に指定され、78年に福岡市に寄贈された。

金印考文は、発見から約20年後の1803年に福岡藩の学者・梶原景熙(かげひろ)が記した史料。〝金印は三つの石に箱のように囲まれて埋められていた。鑑定で黄金の印であると判明したため郡奉行に伝え、福岡藩主が実見した。金印は蔵に納め、甚兵衛は褒美を受け取った〟などと記されている。福岡市博物館によると、文書は複数あり、志賀島の旧家などに伝わったと考えられる。島の地図が添えられたものと地図のないものの大きく2系統に分けられるという。

森本長老が所蔵する文書は縦37.7センチ、横50.5センチ。長老の祖母が梶原家出身で、長老が30年ほど前、おじから文書を引き継いだ。金印発見の経緯や「印を押し、鈕の形を図に写した」という記述、島の地図、金印と大きさが一致する「漢委奴國王」の印影がある。蛇の細かい文様や金印のわずかな欠損まで描き表した図も添えられている。

同博物館の朝岡俊也学芸員は「(景熙の)自筆かどうかの判断は難しいが、金印考文の中でも、書いた本人の一族に伝えられているという点で貴重だと言える」と説明。大阪市立美術館の内藤栄館長(芸術学)は「手元に金印があったとすれば、実際に押し得たかもしれない。実物を写し取らなければ、図もこれほど細部まで描けないだろう」と指摘する。森本長老は「文書とともに石が伝えられたが、戦争の混乱で失われたと聞く。もしかすると(文書に記されている)金印を囲んでいた石だったのかもしれない」と話している。

金印は、大阪市立美術館で開催中の「日本国宝展」(読売新聞社など主催)で7日まで展示されている。

【写真】森本長老が所蔵する金印考文。志賀島の金印。