『東京古田会ニュース』222号の紹介
『東京古田会ニュース』222号が届きました。拙稿「倭人伝「七万余戸」の考察 ―人口推計学の限界―」を掲載していただきました。同稿は、倭人伝に記された邪馬壹国の戸数七万戸が実数なのかどうかについて考察したもので、北海道・沖縄を除く弥生時代の人口を60万人とする現代の人口推計学の数値の方が信頼できないとしました。その理由について、次のように論じました。
〝この人口推定に用いられた計算式が統計学的・論理的に妥当かどうか、わたしには判断できませんが、推定にあたり、各時代ごとの「遺跡数」が主要ファクターになっていることは明らかです。また、「期別制限定数」なるものも、恣意性が排除できない曖昧な数値のように見えます。
このような不確かな数値を採用して弥生時代の精確な人口を推定出来るのでしょうか。そもそも、各時代の「遺跡数」などわかるはずもありません。わかるのは「発見された遺跡の数」だけですし、遺跡の性格(人家・倉庫・工房・宮殿など)や規模(遺構の面積・容積)をどのようにサンプリング・カウントして、「定数」に反映させたのでしょうか。もし仮に計算式は論理的に正しかったとしても、このような不確かで曖昧な数値や定数を用いて縄文時代や弥生時代の人口を推定できるとは、わたしには思えません。〟
更に、正木裕さんによる研究「邪馬壹国の所在と魏使の行程」(注)を紹介し、正木さんからの解説メールを転載しました。その結論部分を転載します。
〝壱岐(一大国)は一三八㎢・三千許家で、これから比例させた、「千戸(家)」の伊都国・不彌国両国の面積は1/3の各約五〇㎢。
(*壱岐の耕地面積割合は1/3程度。怡土平野はほぼ耕地だからこれを一定考慮すれば両国は約二五㎢=方五㎞の範囲の国)。(中略)
「邪馬壹国」の「七万戸」を比例させれば約二八〇〇㎢。これは山岳部(古処馬見英彦山地)を除けば、南西は筑後川河口の有明海岸まで、南は耳納山地を含み、東は周防灘沿岸の豊前市付近まで、北東は直方平野から関門海峡までを包む領域で、邪馬壹国は筑前・筑後の大部分と豊前といった北部九州の主要地域をほとんど含んだ大国だったことになる。
つまり壱岐の戸数と面積をもとにすれば「七万戸」は北部九州、それも福岡県とその周辺に収まる「合理的な戸数」になります。全国で六〇万人などという人口推計がおかしいのです。〟
この正木さんの計算方法は誰でも検証可能なデータに基づいているため、恣意性を排除しやすく、説得力があります。「邪馬台国」畿内説論者の多くは、倭人伝の「七万余戸」や里程記事中の「万二千余里」を信じられないとします。しかし、短里説(1里=約76メートル)を無視しない限り、邪馬壹国の位置が博多湾岸にならざるを得ないことから、同様に「七万余戸」も同時代史料であることから、少なくとも現代人の不確かな推計値よりも信頼できると思います。
なお、同紙一面に掲載された橘高修さんの「『邪馬台国』七万余戸は本当か?」では、「七万余戸」を「本当ではない」とされており、読者は相反する2つの仮説を比較できるわけですから、とてもよい配慮と思いました。異なる意見が発表され、読者がそれらを比較検証でき、一歩ずつ歴史の真実に近づけることから、同紙編集部の見識の高さがうかがえました。
(注)正木裕「邪馬壹国の所在と魏使の行程」『古代に真実を求めて』一七集、明石書店、二〇一四年。