2025年07月一覧

第3510話 2025/07/27

孝徳紀「大化改新詔」の森博達説

 先日、書架を整理していたら森博達(もり・ひろみち)さんの『日本書紀成立の真実』(注①)が目にとまり、手に取り再読しました。同書は昨年10月に亡くなられた水野孝夫さん(古田史学の会・前代表)の遺品整理のおり、形見分けとしていただいた本の一冊です。

 森博達さんの、『日本書紀』が巻毎にα群とβ群とに分かれているとする研究(注②)は有名です(持統紀はどちらにも属さないとする)。『日本書紀』は例外はあるものの基本的には、α群は唐人により唐代北方音(中国語原音)と正格漢文で述作されており、β群は倭人により倭習漢文が多用され、倭音に基づく万葉仮名で述作されているとする説です。この森説は学界に衝撃を与え、その後、少なからぬ研究者により引用や援用されており、多元史観・九州王朝説を支持する古田学派内でも注目されてきました。古田先生も生前、森さんとお会いしたことがあると言っておられました。

 森説によれば、α群とβ群との分類が各巻ごとになされたのですが、その分類に於いて例外的な記事が多出する巻があることも指摘しています。例えば孝徳紀はα群に分類されていますが、その中の大化改新詔を中心としてβ群の特徴である倭習(使役の誤用、受身の誤用、譲歩の誤用、否定詞の語順の誤り)が他のα群諸巻よりも多く見られると指摘し、その理由として当該部分のほとんどが日本書紀編纂の最終段階における後人による加筆と森さんは結論づけました。

 この森さんの判断に反対するわけではありませんが、九州王朝説の視点からすれば、孝徳紀に記された大化改新詔は、九州年号の大化年間(695~703年)に出された詔勅ではないかと考えることができます。恐らくは藤原宮で出された王朝交代(この場合、禅譲か)の為の詔勅であり、九州年号「大化」を年次表記として使用した詔勅であれば、形式上は九州王朝の最後の天子によって発せられたのではないでしょうか。その為、詔勅には「大化二年」と年次が記され、『日本書紀』編纂時にはそれを50年遡らせて、孝徳紀に「大化」年号と一緒に編入したと思われます(注③)。その一例が、大化二年の〝建郡の詔勅〟です。

 「凡そ郡は四十里を以て大郡とせよ。三十里より以下、四里より以上を中郡とし、三里を小郡とせよ。」

 これは、本来は九州年号・大化二年(696)に出された〝廃評建郡〟の詔勅です。近畿天皇家はこの九州年号の〝大化二年の改新詔〟により、〝九州王朝の天子の詔〟の形式を採用して王朝交代の準備を着々と進め、大宝元年(701)年の王朝交代と同時に、全国の行政単位の「評」から「群」への一斉変更に成功したことが、出土木簡からも明らかです。

 こうした九州王朝説の視点からも、森さんの『日本書紀』研究は貴重ではないでしょうか。水野さんの遺品『日本書紀成立の真実』を読みながら、森説への理解を改めて深めることができました。

(注)
①森博達『日本書紀成立の真実 ――書き換えの主導者は誰か』中央公論社、二〇一一年。
②森博達『古代の音韻と日本書紀の成立』大修館書店、一九九一年。第20回金田一京助博士記念賞を受賞。
同『日本書紀の謎を解く ――述作者は誰か』中公新書、一九九九年。第54回毎日出版文化賞を受賞。
③古賀達也「大化二年改新詔の考察」『古田史学会報』八九号、二〇〇八年。
同「王朝統合と交替の新・古代史 ―文武・元明「即位の宣命」の史料批判―」『古代史の争点』(『古代に真実を求めて』二五集)、明石書店、二〇二二年。
同「大化改新と王朝交替 ―改新詔が大化二年の理由―」『九州倭国通信』二〇七号、二〇二二年。


第3509話 2025/07/22

「海の正倉院」

  沖ノ島祭祀遺跡の中の王朝交替(3)

 象眼が確認された沖ノ島の金銅製矛鞘のような鉄矛は、騎兵が備えていた主要な武器とされ、日本列島には5世紀に朝鮮半島から騎馬文化が流入し普及したとされているようです。この騎馬文化の痕跡は、当の沖ノ島出土の馬具・装飾品を見てもわかるように、九州王朝内でもその痕跡は少なからず遺されています。例えば、九州王朝の王(筑紫君磐井)の墳墓・岩戸山古墳(福岡県八女市)から出土している石人・石馬は有名ですし、江田船山古墳(熊本県玉名郡和水町)出土の鉄刀(国宝)に馬の銀象眼が施されていることからも騎馬文化の受容をうかがえます。

 極めつけは、九州王朝のことを記した『隋書』俀国伝に次の記事が見えることです。

 「また大礼、哥多毗を遣はす。二百余騎を従え郊に労す。」

 大礼哥多毗が、二百余騎の騎馬隊を率いて隋使を迎えたとする記事ですから、九州王朝が騎馬文化を受容し、七世紀初頭、少なくとも二百余騎の騎馬隊を擁していたことを示しています。ちなみに、『隋書』俀国伝の俀国(倭国)が、大和朝廷ではなく九州王朝であることは次の記事からも明らかです。

❶「阿蘇山有り。その石、故無く火起こり、天に接す。」
❷「小環を以って鸕鷀の項に挂け、水に入りて魚を捕しむ。日に百余頭を得る。」
❸「楽に五弦の琴、笛あり。」

 ❶の阿蘇山噴火の記事は隋使の見聞に基づいており、九州王朝の代表的な山を表したものです。❷の鸕鷀(ろじ)とは鵜のことで、これは鵜飼の記事です。北部九州の筑後川や矢部川、肥後の菊池川の鵜飼は江戸期の史料にも記されており、これもまた九州王朝の風物を表した記事です(注)。❸の「五弦の琴」は沖ノ島から出土しており、九州王朝の楽器を紹介した『隋書』の記事と出土物とが対応しています。

 以上のように、石馬や馬の象眼鉄刀などの出土遺物や『隋書』の騎馬隊記事は、金銅製矛鞘が示す騎馬文化を九州王朝(倭国)が受容していたことを示唆しています。(つづく)

(注)
古賀達也「九州王朝の築後遷宮 ―玉垂命と九州王朝の都―」『新・古代学』古田武彦とともに 第4集、1999年、新泉社。
同「洛中洛外日記」704話(2014/05/05)〝『隋書』と和水(なごみ)町〟

多元的古代研究会
令和七年(2025)八月一日
海の正倉院の中の王朝交代
沖ノ島金銅製矛鞘の象眼発見ニュースに触れて
古賀達也(古田史学の会)
https://youtu.be/HkZ-f_2JMyo


第3508話 2025/07/21

国立羅州博物館との質疑応答

         とAIレポート

7月19日に「古田史学の会」関西例会が豊中倶楽部自治会館で開催されました。8月例会も会場は豊中倶楽部自治会館です。

今回は、例会デビューとなった松尾匡さんの発表が注目されました。韓国の古墳や甕棺の編年について、全羅南道の国立羅州博物館に問い合わせたその回答書の報告です。たとえば次のような質疑応答がなされました。

(質問1) 遺物の年代を特定された手法について
貴博物館では、甕棺・段型古墳などについて、3世紀~6世紀の編年とされていますが、この遺物の年代を特定された際の基準を教えていただけませんか。絶対年代は何を基準に決定されましたか?
(背景)
日本では古代史上の遺物の年代を特定する場合、主に須恵器を使って年代を特定する方法が使われています。しかし、最近のその基準に疑問を出している研究者が出てきています。韓国では、現在の編年の基準はどうですか。

(回答1) 遺物の年代を特定された手法について
甕棺や古墳などの年代に関しては、様々な要素を考慮して相対編年しています。そのためには遺物の層序地質学的文脈と自然科学的な調査結果をもって想定し、甕棺の相対編年も考慮します。共伴遺物を中心に判断します。遺跡の年代は学者ごとに違いがあり、報告書や事典などの資料を中心に編年しています。

こうした質問と回答が紹介されました。回答書はハングルで書かれており、それを松尾さんが訳して発表されたものです。またAI(Gemini)を使用して、「韓国における甕棺埋葬の歴史的変遷;その起源、発展、そして終焉」というレポートも発表されました。これからは古代史研究においてもAIを駆使する時代です。その長所と限界をよく理解して利用する能力が研究者に要求されることを実感でき、とても勉強になった発表でした。

7月例会では下記の発表がありました。発表希望者は上田さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。
なお、古田史学の会・会員は関西例会にリモート参加(聴講)ができますので、参加希望される会員はメールアドレスを本会までお知らせ下さい。

〔7月度関西例会の内容〕
①国立羅州博物館からの回答書について (木津川市・松尾 匡)

②武具・甲冑から見えてくる“倭の五王”の時代〈4~5世紀の極東アジア〉 (豊中市・大下隆司)参考
YouTube動画(Zoommeeting)https://youtu.be/lwehH0wVplw

③考古学から論じる「邪馬台国」説の最近の傾向 (神戸市・谷本 茂)

④炭素14 年代測定法の原理と限界 (京都市・古賀達也)
⑤「中学生による証明」と古田論証 (京都市・古賀達也)
参考YouTube動画(Zoommeeting)https://youtu.be/AmqQzFjQMxc

⑥岡山県平福陶棺の図像は水と馬のケルトの女神エポナ (大山崎町・大原重雄)参考YouTube動画(Zoommeeting)https://youtu.be/9T1fhD50zu4

⑦改造された藤原京 (八尾市・服部静尚)

⑧消された「詔」と遷された事績 (東大阪市・萩野秀公)
参考YouTube動画(Zoommeeting)https://youtu.be/oJSIX4PMDFA

⑨小戸の原譜と「古事記」の譜 (大阪市・西井健一郎)
参考YouTube動画(Zoommeeting)

⑩百済記に記された「貴国」が栄山江流域の勢力であった可能性
(茨木市・満田正賢)
参考YouTube動画(Zoommeeting)https://youtu.be/tg4t-7R_gEA

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
08/16(土) 10:00~17:00 会場 豊中倶楽部自治会館
09/20(土) 10:00~17:00 会場 東成区民センター 601号集会室
10/18(土) 10:00~17:00 会場 豊中倶楽部自治会館


第3507話 2025/07/17

「海の正倉院」

 沖ノ島祭祀遺跡の中の王朝交替(2)

 今回、象眼が確認された沖ノ島の金銅製矛鞘は当時の東アジアで最高峰といえる優品と評価されています。そのことには異論はないのですが、多元史観・九州王朝説から見れば、九州王朝が沖ノ島の祭祀をいかに重要視していたかを示す奉献品と言えます。たとえば、九州では古墳時代の金銀象眼鉄刀が出土しており、ヤマトからの技術にたよる必要はありません。例えば次の象眼鉄刀が著名です。

○銀象眼龍文大刀 宮崎県えびの市、島内地下式横穴墓群出土。古墳時代中期~後期、5~6世紀。全長98.6cm。
○銀象眼錯銘大刀 熊本県玉名郡和水町、江田船山古墳出土。5世紀末~6世初頭。
○金象眼庚寅銘大刀 福岡市西区の元岡古墳群から出土した金象眼の銘文を持つ6世紀の鉄刀。これは四寅剣と呼ばれるもので、国家の災難を防ぐという。庚寅は570年に当たり、九州年号の金光元年。

 また、鉄鏡ではありますが、「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」が大分県日田市のダンワラ古墳から出土しており、魏・漢時代の中国鏡と見られています。これほど見事な金銀錯嵌が施された鉄鏡は国内ではこの一面だけです。

 象眼ではありませんが、国内では珍しい鍍金鏡が糸島市から出土しています。それは「鍍金方格規矩四神鏡」と呼ばれる鏡で、福岡県糸島市の一貴山銚子塚古墳から出土しています。4世紀後半。

 以上のように、金銅製矛鞘の象眼は九州王朝の伝統的技術で製造することが可能であり、遠く離れたヤマト王権からの奉献説をわざわざ持ち出す必要はないのです。(つづく)

多元的古代研究会
令和七年(2025)八月一日
海の正倉院の中の王朝交代
沖ノ島金銅製矛鞘の象眼発見ニュースに触れて
古賀達也(古田史学の会)
https://youtu.be/HkZ-f_2JMyo


第3506話 2025/07/16

『東日流外三郡誌の逆襲』

       表紙カバー作成

 八幡書店から発行される『東日流外三郡誌の逆襲』の最終校(第4校)を本日ようやく提出できました。『古代に真実を求めて』二冊分に相当する440頁の大部の著作ですので、校正のたびに新たな誤りが見つかり、いつまでこの作業を繰り返さなければならないのかと思いながら、体力と集中力をすり減らす日々が続きました。その作業からようやく解放されました。

 それと同時に出版社から本のカバーデザインと帯のキャッチコピーが届きました。赤と黒を基調としたおどろおどろしい雰囲気の表紙カバーですが、書名や表紙デザインは出版社の判断によりますので、出版のプロの意見を尊重することにしました。

 帯に記されたキャッチコピーは、わたしや古田先生の気持ちをよく表しており、ちょっと感動しました。それは次のような文章です。

 「壁の外」に歴史はあった。
学界は長く、この書を「偽書」と断じてきた。
笑い、罵り、語る価値すらならいと切り捨ててきた。
だが、それでも足を止めなかった者たちがいる。
北の果て、語部の記録に宿った“もう一つの日本”。
――それは、封じられた真実か。それとも、壮大な反逆か。
いま、禁忌の書は再び開かれる。
すべては、壁の内側に飼い慣らされた歴史を打ち壊すために。

 早ければ7月末、遅くとも8月中には刊行予定です。その後、9月には青森県弘前市で出版記念講演会(主催:秋田孝季集史研究会)を予定しています。10月には東京で八幡書店主催の出版記念講演会が予定されており、いずれもわたしと八幡書店の武田社長が出席します。

 本書の発行に30年の歳月が必要でしたが、「この書を世に出すまで死ねない」という思いを抱いで今日に至りました。わたしは古田門下の中では、漢文や古典の教養も低く、先生からよく叱られた〝できの悪い弟子〟でした。それだけに、反古田学派の和田家文書偽作キャンペーンによる「市民の古代研究会」分裂騒動後、「古田史学の会」を創立し、一貫して古田史学と古田先生を支持してきたこと、それと本書の上梓を生涯の誇りとします。本書を志半ばで倒れた同志に捧げます。


第3505話 2025/07/14

「海の正倉院」

 沖ノ島祭祀遺跡の中の王朝交替(1)

 7月5日(土)、九州古代史の会の月例会(福岡市早良区ももち文化センター)で、「海の正倉院」と呼ばれている沖ノ島祭祀遺跡出土奉献品の変遷に、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交替の痕跡が遺されていることを報告しました。講演の冒頭では次のように述べました。

 〝最近のニュースですが、「海の正倉院」と呼ばれている沖ノ島から出土していた国宝「金銅製矛鞘」に象眼文様が確認されたと新聞やテレビが報道し、次のように説明しています。
「当時の東アジアの鞘、矛で最高峰といえる優品。ヤマト王権が沖ノ島の祭祀をいかに重要視していたかを改めて示す発見だ。」
「金銅製矛鞘」はヤマト王権が沖ノ島に奉献したとするこの説明(解釈)は正しいのでしょうか。その根拠はなんでしょうか。そもそも根拠はあるのでしょうか。〟

 日本各地で優れた遺物や遺構が出土すると、学者は申し合わせたかのように、「ヤマト王権からもたらされたもの」「大和朝廷の影響が及んだもの」と説明するのが常ではないでしょうか。そして、その〝隠された根拠〟は、『日本書紀』に記された歴史認識の大枠(日本列島の代表王権は神代の時代から近畿天皇家である)を論証抜きで是とする歴史観、すなわち「近畿天皇家一元史観」と古田武彦先生が呼んだものです。

 もちろん、当人がそのことを自覚しているのか無自覚なのかはわかりませんが、少なくとも学校ではそうならい続け、受験でも教科書に書かれたその歴史観に基づいた回答が正解とされる教育システムの中で高得点をとり続け、大学教授にまで上り詰めた人々が今日の学界の中枢を占めています。

 それでは古田先生が提唱した多元史観・九州王朝説に立てば、今回の「金銅製矛鞘」はどのように位置づけることができるでしょうか。福岡市の講演ではこのことに焦点を絞り、史料根拠を提示し、それに基づく論理を説明しました。(つづく)


第3504話 2025/07/09

英文タイトル・アブストラクトの提案

7月5日(土)・6日(日)の福岡市と久留米市の講演会に千葉市から参加された倉沢良典さん(古田史学の会・会員)から、『古代に真実を求めて』掲載論文に英文のタイトル(表題)とアブストラクト(概要)を付けてはどうかとの提案をいただきました。

確かに古田史学を世界に発信するためには必要なことですし、近年では文系の学会誌にも投稿時の英文タイトル・アブストラクトの提出要請は普通に行われています。とは言うものの、英文に強くないわたしにはハードルが高く、自分の論文を英訳するだけならまだしも、アブストラクトとは言え、他者の英文論文を正しく査読する自信はありません。氏の提案に躊躇するわたしにハッパをかけるかのように、FaceBookに転載した「洛中洛外日記」第3502話(2025/07/04)〝炭素14 年代測定法の原理と限界〟の倉沢さんによる英訳が送られてきました。下記の通りです(気づいた点を少し修正しました)。もともとの私の構文が英訳を前提としないものですから、そのまま英訳するのは大変な作業だったと思います。

読んでいて、なるほどと思ったのが次の英訳でした。

『古代に真実を求めて』 ’Seeking the Truth in Antiquity’
『「邪馬台国」はなかった』”There Was No ‘Yamataikoku'”

いきなり英文アブストラクトは難しくても、タイトルだけなら英文表記して目次に入れることはできるかもしれません。そのために、古田史学独特の単語だけでも統一しておいたほうが良いと思いました。たとえば、「九州王朝」「九州年号」「多元史観」「一元史観」「二倍年暦」などです。ちなみに「古田史学の会」は‘Furuta’s Historical Science Association’としてきました。英文ホームページをご参照下さい。

現役時代、製品説明書や注意表記は、輸出業務や海外でのプレゼン資料用に英訳したことはありましたが、テクニカルタームが国際的に統一されている分野ですから何とかなったものの、古田史学独特の専門用語の英訳は簡単にできそうもありません。もっと、英語を勉強しておけばよかったと、この年になって後悔しています。

《以下、倉沢さんによる英訳》
‘Rakuchu Rakugai Diary’ 3502 July 4th,2025
The principles and limitations of carbon-14 dating method
―Email from Mr.Shigeru Tanimoto―

I received the following email from Mr.Shigeru Tanimoto (editor of ‘Seeking the Truth in Antiquity’), who read the article by Mr.Fumitaka Urano introduced in ‘Rakuchu Rakugai Diary’ 3501, titled ‘Hashihaka is around AD300, and Hokenoyama is around AD270: Simple Evidence’ (Note).
The content scientifically points out the limitations of the carbon-14 dating method from the perspective of a science researcher (a graduate of the Department of Electronic Engineering at Kyoto University, who has excelled at Hewlett-Packard and Agilent Technologies).
I will quote the relevant part.

【Email from Mr. Shigeru Tanimoto (excerpt)】
Thank you for providing very interesting information. (Omitted)
Regarding the analysis by Fumitaka Urano, although he uses the calibration curve (Intcal20) to obtain actual ages from measurement data with the age calibration software OxCal, while it is good to utilize those results, there seem to be some inaccuracies in his basic understanding of statistical inference (if evaluated strictly).
That aside, in broad terms, M.Urano’s concise logic is impressive as it sharply points out the internal contradictions of the conventional interpretation while relying on the same data as the mainstream view!
I was impressed that he recognized the logical constraints of dating based on pottery forms and that he was someone capable of scientific logical thinking.
Well, since the original interpretations of the C14 measurement data from historical museums and the Nara National Research Institute were somewhat distorted, I think it is impressive that the point that clearly pinpointed those shortcomings with straightforward logic.
Perhaps it means that we can no longer maintain unreasonable interpretations forever, and the veneer of common theory has begun to wear off…
By the way, it is a major misunderstanding to think that the actual age can be pinpointed (for example, ±10 years) using the C14 method.
Considering factors such as measurement errors in data and the range of calibration curves (statistically significant range), there is a width of about one century (±50 years) even under the best conditions, and typically the precision (or accuracy) is about ±100 years.
In the historical museum’s paper, there was a mention that the construction period of the Hashihaka Tomb was identified within a margin of ±10 years, but this is clearly an erroneous interpretation of the calibration curve reading results.
For those who are familiar with measurement theory and statistical inference, it was a basic interpretative error.
(I don’t know how it is currently interpreted, but…) [End of reproduction]

I completely agree with Mr.Tanimoto’s point.
During my active years, I was also responsible for quality control and testing operations of chemical products, and in order to accurately measure the quality of products, it is fundamental to confirm that the precision of measuring instruments and the measurement principles are appropriate for the purpose of measurement.
In that sense, carbon-14 dating can be expected to have a scientifically significant and excellent effect for rough dating on the order of hundreds of years, but it is fundamentally not possible to achieve measurement accuracy on the order of tens of years.
It’s a basic problem, so to speak, of whether you can measure the size of a grain of sand, which is about 1mm, with a ruler that only has markings at 1cm intervals.
If we are to investigate the “Yamatai(臺) Kingdom” (referred to as Yamawi (壹) Kingdom in the original text) as recorded in the “Chronicles of Japan,” we must rely on methods such as dendrochronology or the measurement of cellulose oxygen isotopes in tree rings, rather than the carbon-14 dating method, which has a wide calibration curve (intCAL).
Just as measuring a sand grain’s size, roughly 1mm, requires at least a ruler with divisions of 0.1mm, ideally 0.01mm, so too does our inquiry into Yamatai necessitate more precise methodologies.
Of course, even in that case, the required measurement conditions and sampling environment (methods) will be necessary. (to be continued)

(Note) Urano Fumitaka “Hashihaka is around AD300, Hokenoyama is around AD270: Simple Evidence” ‘note’ September 2, 2024.
https://note.com/fumitaka_urano/n/n33c623b935b1

(Photos) A transcript of a lecture by Mr. Tanimoto and Koga published in “Criticism of Eastern Historical Sources – A Challenge from ‘Honest History'” (2001).
A transcript of the lecture held at the Asahi Shimbun building in Tokyo to commemorate the 30th anniversary of the publication of “There Was No ‘Yamataikoku'”.


第3503話 2025/07/08

故郷(福岡市・久留米市)で講演しました

 7月5日(土)・6日(日)、福岡市と久留米市で講演してきました。わたしが物心ついたときには久留米市で生活していましたが、母親から聞いた話では、生まれは福岡市とのことです。このことは今回初めて公にしますが、わたしにとってはどちらも大切な故郷であることに違いはありません。他方、久留米高専(工業化学科11期)卒業後の半世紀を京都市で暮らしていますので、京都で生涯を終えたいと願っています。何よりも古田武彦先生との思い出がたくさん遺っている町ですから。

 話を戻しますが、5日は「古田史学の会」の友好団体である「九州古代史の会」月例会(早良区ももち文化センター)で講演しました。テーマは〝王朝交代前夜の倭国と日本国 ―温泉の古代史・太宰府遷都の真実―〟と、急遽追加した〝「海の正倉院」の中の王朝交替 ―沖ノ島・金銅製鞘の象眼発見ニュースに触れて―〟(注)です。地元ネタということもあって好評だったようです。

 「九州古代史の会」はこの度三役が交代され、講演後の懇親会では新三役の皆さんと親しく懇談させていただきました。新会長の榊原秀夫さんは福岡県庁で長く要職に就かれていた方で、温厚で誠実なお人柄でした。副会長の松中祐二さんは三十年来の友人で古田史学の支持者です。事務局長の金山さんも熱烈な古田ファンです。同会との友好関係は今後益々深まることと思います。

 翌6日は久留米大学御井キャンパスでの公開講座で講演しました。テーマは〝王朝交代前夜の倭国と日本国 ―温泉の古代史・太宰府遷都の真実―〟。ここでも皆さん熱心に聴講されていました。聞けば、講座「九州王朝論2025」には70名を越える申し込みがあり、その内の20名は新規参加とのことでした。昨年初めて参加された若い女性の方々も見え、リピーターになっていただけたようです。同講座は確実に世代交代に成功しています。また、久留米高専時代のクラスメートのH君も参加されており、五十年ぶりの邂逅に驚きました。

 これからも分かりやすく面白いテーマで九州王朝論を語っていきたいと決意を新たにしました。全国トップクラスの記録的猛暑が続く久留米市でしたが、多くの皆さんにご来場いただき、御礼申し上げます。おかげさまで、持参した『古代に真実を求めて』も完売できました。

 今月27日(日)には同講座で正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が〝古田武彦と九州王朝 ―九州王朝の歴史―〟というテーマで講演します。その前日には正木さんも九州古代史の会で講演されます。地元の古代史・九州王朝説ファンの皆さんのご参加をお待ちしています。

 久留米大学での講演後も同大学教授の福山先生をはじめ5名の方々と懇親会を開催しました。遠くは千葉市や長崎市から参加された「古田史学の会」の会員もおられ、思いで深い久留米での一夕となりました。来年も皆さんとお会い出来れば幸せです。

(注)「洛中洛外日記」3500話 2025/06/28〝7/05(土)「九州古代史の会」講演での追加テーマ ―「海の正倉院」の中の王朝交替―〟をご参照下さい。


第3502話 2025/07/04

炭素14 年代測定法の原理と限界

 ―谷本茂さんからのメール―

 「洛中洛外日記」3501で紹介した、浦野文孝さんの「箸墓は三〇〇年前後、ホケノ山は二七〇年前後:シンプルな根拠」(注)を読まれた谷本茂さん(『古代に真実を求めて』編集部)から次のメールが届きました。内容は理系研究者(京都大学工学部電子工学科卒)の視点で、炭素14年代測定法の限界を科学的に指摘したものです。当該部分を転載します。

【谷本茂さんからのメール(抜粋)】
〝非常に興味深い情報をご報告戴き、有難うございます。(中略)

 浦野文孝さんの分析については、測定データから較正曲線(Intcal20)を使って実年代を求める方法において、年代較正ソフトOxCalを用いておられるのですが、その結果を利用するのは良いとしても、(厳密に評すれば)統計的推論法の基礎的な理解に若干不正確な部分があるようです。

 それはともかく、大枠として、浦野氏の簡明な論理は、通説と同じデータに依拠しながら、通説の解釈の内部矛盾を鋭く指摘して、あっぱれですね!
土器形式による編年の論理的制約を認識しておられて、理系的論理思考ができる人なのだと感心しました。まぁ、元々の歴博や奈文研などの箸墓のC14測定データの解釈が曲解の類だったのですから、その欠点を簡明な論理で突いた点は、見事だと思います。いつまでも無理な解釈は維持できず、通説のメッキが剥げてきたということでしょうか…。

 ちなみに、C14法で、実年代がピンポイント(例えば、±10年)で分かると考えるのは大きな誤解です。データの測定誤差および較正曲線の幅(統計的有意性の範囲)などを考慮すれば、どんなに条件の良い場合でも、約1世紀分の幅(±50年)がありますし、通常は±100年程度の精度(あるいは確度)のものなのです。

 歴博の論文で、箸墓の築造時期が±10年の幅で特定されたというような記載もありましたが、明らかに較正曲線の読み取り結果の解釈の誤りです。測定論や統計的推論を知っているものからすれば、初歩的な解釈誤りでした。(現在はどう解釈されているのか知りませんが…)〟【転載終わり】

 この谷本さんの指摘は全くその通りだと思います。わたしも現役時代に、化学製品の品質管理と検定業務の責任者をしていたことがありますが、製品の品質を精確に測定するためには、測定機器の精度や測定原理が測定目的に対して適切であることの確認は、基本中の基本です。

 そうした意味からすると、炭素14年代測定法は100年単位のざっくりとした年代測定には科学的で優れた効果を期待できますが、10年単位の測定精度など原理的に望むべくもありません。言わば、1cm単位のメモリしかない定規で、1mmほどの砂粒の大きさを測れるのかというレベルの初歩的な問題です。
倭人伝に記載された「邪馬台国」(原文では邪馬壹国)を探るのであれば、例えば1mmほどの砂粒の大きさを測定するためには、せめて0.1mm単位、できれば0.01mm単位のメモリを持つ定規で測らなければならないように、較正曲線(intCAL)そのものが幅を持つ炭素14年代測定法ではなく、年輪年代測定法や年輪セルロース酸素同位体比測定法などに頼らざるを得ません。もちろんその場合でも、必要な測定条件・サンプリング環境(手法)が要求されます。(つづく)

(注)浦野文孝「箸墓は三〇〇年前後、ホケノ山は二七〇年前後:シンプルな根拠」『note』二〇二四年九月二日。
https://note.com/fumitaka_urano/n/n33c623b935b1

 

《以下、倉沢さんによる英訳》
‘Rakuchu Rakugai Diary’ 3502 July 4th,2025
The principles and limitations of carbon-14 dating method
―Email from Mr.Shigeru Tanimoto―

I received the following email from Mr.Shigeru Tanimoto (editor of ‘Seeking the Truth in Antiquity’), who read the article by Mr.Fumitaka Urano introduced in ‘Rakuchu Rakugai Diary’ 3501, titled ‘Hashihaka is around AD300, and Hokenoyama is around AD270: Simple Evidence’ (Note).
The content scientifically points out the limitations of the carbon-14 dating method from the perspective of a science researcher (a graduate of the Department of Electronic Engineering at Kyoto University, who has excelled at Hewlett-Packard and Agilent Technologies).
I will quote the relevant part.

【Email from Mr. Shigeru Tanimoto (excerpt)】
Thank you for providing very interesting information. (Omitted)
Regarding the analysis by Fumitaka Urano, although he uses the calibration curve (Intcal20) to obtain actual ages from measurement data with the age calibration software OxCal, while it is good to utilize those results, there seem to be some inaccuracies in his basic understanding of statistical inference (if evaluated strictly).
That aside, in broad terms, M.Urano’s concise logic is impressive as it sharply points out the internal contradictions of the conventional interpretation while relying on the same data as the mainstream view!
I was impressed that he recognized the logical constraints of dating based on pottery forms and that he was someone capable of scientific logical thinking.
Well, since the original interpretations of the C14 measurement data from historical museums and the Nara National Research Institute were somewhat distorted, I think it is impressive that the point that clearly pinpointed those shortcomings with straightforward logic.
Perhaps it means that we can no longer maintain unreasonable interpretations forever, and the veneer of common theory has begun to wear off…
By the way, it is a major misunderstanding to think that the actual age can be pinpointed (for example, ±10 years) using the C14 method.
Considering factors such as measurement errors in data and the range of calibration curves (statistically significant range), there is a width of about one century (±50 years) even under the best conditions, and typically the precision (or accuracy) is about ±100 years.
In the historical museum’s paper, there was a mention that the construction period of the Hashihaka Tomb was identified within a margin of ±10 years, but this is clearly an erroneous interpretation of the calibration curve reading results.
For those who are familiar with measurement theory and statistical inference, it was a basic interpretative error.
(I don’t know how it is currently interpreted, but…) [End of reproduction]

I completely agree with Mr.Tanimoto’s point.
During my active years, I was also responsible for quality control and testing operations of chemical products, and in order to accurately measure the quality of products, it is fundamental to confirm that the precision of measuring instruments and the measurement principles are appropriate for the purpose of measurement.
In that sense, carbon-14 dating can be expected to have a scientifically significant and excellent effect for rough dating on the order of hundreds of years, but it is fundamentally not possible to achieve measurement accuracy on the order of tens of years.
It’s a basic problem, so to speak, of whether you can measure the size of a grain of sand, which is about 1mm, with a ruler that only has markings at 1cm intervals.
If we are to investigate the “Yamatai(臺) Kingdom” (referred to as Yamawi (壹) Kingdom in the original text) as recorded in the “Chronicles of Japan,” we must rely on methods such as dendrochronology or the measurement of cellulose oxygen isotopes in tree rings, rather than the carbon-14 dating method, which has a wide calibration curve (intCAL).
Just as measuring a sand grain’s size, roughly 1mm, requires at least a ruler with divisions of 0.1mm, ideally 0.01mm, so too does our inquiry into Yamatai necessitate more precise methodologies.
Of course, even in that case, the required measurement conditions and sampling environment (methods) will be necessary. (to be continued)

(Note) Urano Fumitaka “Hashihaka is around AD300, Hokenoyama is around AD270: Simple Evidence” ‘note’ September 2, 2024.
https://note.com/fumitaka_urano/n/n33c623b935b1

(Photos) A transcript of a lecture by Mr. Tanimoto and Koga published in “Criticism of Eastern Historical Sources – A Challenge from ‘Honest History'” (2001).
A transcript of the lecture held at the Asahi Shimbun building in Tokyo to commemorate the 30th anniversary of the publication of “There Was No ‘Yamataikoku'”.


第3501話 2025/07/01

箸墓とホケノ山、C14年代の比較論

 ―浦野文孝さんの編年方法―

 6月22日に開催した『列島の古代と風土記』出版記念講演会で講演していただいた久住猛雄さんの主張「考古学では編年が基本」という言葉に触発され、新しい情報に基づく弥生編年について勉強し直しています。そうしたところ、とてもシンプル(単純明解)でロバスト(強固)な論理構造を持つ面白い論証をWEB上で見つけました。浦野文孝さんの「箸墓は三〇〇年前後、ホケノ山は二七〇年前後:シンプルな根拠」という論稿〔note〕です(注)。要点部分を抜粋引用します。

〝シンプルでわかりやすい根拠
箸墓周濠小枝、ホケノ山小枝群の測定結果と、両者の前後関係をもとに、以下のように整理できます。

・ホケノ山から出土した小枝群の炭素14年代測定によると、ホケノ山古墳は270年前後または4世紀後半の確率が高い。どちらが正しいかはわからない
・箸墓周濠から出土した小枝の炭素14年代測定によると、箸墓古墳は230年前後または300年前後の確率が高い。どちらが正しいかはわからない
・ホケノ山古墳→箸墓古墳の順番でつくられたと考えられる
(中略)
・ホケノ山古墳は箸墓古墳よりも古いのだから、4世紀後半の可能性は消え、270年前後が確定する
・ホケノ山古墳が270年前後で、ホケノ山古墳は箸墓古墳よりも古いのだから、箸墓古墳の230年前後の可能性は消え、300年前後が確定する

 これが僕の「箸墓古墳は300年前後、ホケノ山古墳は270年前後」の年代推定の根拠になります。とてもシンプルでわかりやすいです。〟

 この浦野さんの論理構造はわかりやすく、反論しにくいように思います。箸墓古墳が300年前後に編年されると、同様に布留0式も300年前後の土器となり、同種の土器が出土した各地の遺構や古墳の編年も軒並み300年頃となり、おそらく「邪馬台国」畿内説の根拠(鏡や土器)が失われるのではないでしょうか。

 ちなみに浦野さんは自説を「卑弥呼博多/邪馬台国大和説」とされていますので、「邪馬台国」東遷説に近いのかもしれません。古田先生の邪馬壹国博多湾岸説とは異なりますが、注目したい論者です。(つづく)

(注)浦野文孝「箸墓は三〇〇年前後、ホケノ山は二七〇年前後:シンプルな根拠」『note』二〇二四年九月二日。
https://note.com/fumitaka_urano/n/n33c623b935b1