2025年07月27日一覧

第3510話 2025/07/27

孝徳紀「大化改新詔」の森博達説

 先日、書架を整理していたら森博達(もり・ひろみち)さんの『日本書紀成立の真実』(注①)が目にとまり、手に取り再読しました。同書は昨年10月に亡くなられた水野孝夫さん(古田史学の会・前代表)の遺品整理のおり、形見分けとしていただいた本の一冊です。

 森博達さんの、『日本書紀』が巻毎にα群とβ群とに分かれているとする研究(注②)は有名です(持統紀はどちらにも属さないとする)。『日本書紀』は例外はあるものの基本的には、α群は唐人により唐代北方音(中国語原音)と正格漢文で述作されており、β群は倭人により倭習漢文が多用され、倭音に基づく万葉仮名で述作されているとする説です。この森説は学界に衝撃を与え、その後、少なからぬ研究者により引用や援用されており、多元史観・九州王朝説を支持する古田学派内でも注目されてきました。古田先生も生前、森さんとお会いしたことがあると言っておられました。

 森説によれば、α群とβ群との分類が各巻ごとになされたのですが、その分類に於いて例外的な記事が多出する巻があることも指摘しています。例えば孝徳紀はα群に分類されていますが、その中の大化改新詔を中心としてβ群の特徴である倭習(使役の誤用、受身の誤用、譲歩の誤用、否定詞の語順の誤り)が他のα群諸巻よりも多く見られると指摘し、その理由として当該部分のほとんどが日本書紀編纂の最終段階における後人による加筆と森さんは結論づけました。

 この森さんの判断に反対するわけではありませんが、九州王朝説の視点からすれば、孝徳紀に記された大化改新詔は、九州年号の大化年間(695~703年)に出された詔勅ではないかと考えることができます。恐らくは藤原宮で出された王朝交代(この場合、禅譲か)の為の詔勅であり、九州年号「大化」を年次表記として使用した詔勅であれば、形式上は九州王朝の最後の天子によって発せられたのではないでしょうか。その為、詔勅には「大化二年」と年次が記され、『日本書紀』編纂時にはそれを50年遡らせて、孝徳紀に「大化」年号と一緒に編入したと思われます(注③)。その一例が、大化二年の〝建郡の詔勅〟です。

 「凡そ郡は四十里を以て大郡とせよ。三十里より以下、四里より以上を中郡とし、三里を小郡とせよ。」

 これは、本来は九州年号・大化二年(696)に出された〝廃評建郡〟の詔勅です。近畿天皇家はこの九州年号の〝大化二年の改新詔〟により、〝九州王朝の天子の詔〟の形式を採用して王朝交代の準備を着々と進め、大宝元年(701)年の王朝交代と同時に、全国の行政単位の「評」から「群」への一斉変更に成功したことが、出土木簡からも明らかです。

 こうした九州王朝説の視点からも、森さんの『日本書紀』研究は貴重ではないでしょうか。水野さんの遺品『日本書紀成立の真実』を読みながら、森説への理解を改めて深めることができました。

(注)
①森博達『日本書紀成立の真実 ――書き換えの主導者は誰か』中央公論社、二〇一一年。
②森博達『古代の音韻と日本書紀の成立』大修館書店、一九九一年。第20回金田一京助博士記念賞を受賞。
同『日本書紀の謎を解く ――述作者は誰か』中公新書、一九九九年。第54回毎日出版文化賞を受賞。
③古賀達也「大化二年改新詔の考察」『古田史学会報』八九号、二〇〇八年。
同「王朝統合と交替の新・古代史 ―文武・元明「即位の宣命」の史料批判―」『古代史の争点』(『古代に真実を求めて』二五集)、明石書店、二〇二二年。
同「大化改新と王朝交替 ―改新詔が大化二年の理由―」『九州倭国通信』二〇七号、二〇二二年。