2025年09月17日一覧

第3531話 2025/09/17

興国の津輕大津波伝承の理化学的証明(1)

 三十年ほど前に突然始まった『東日流外三郡誌』偽作キャンペーンは、同文書の所蔵者である和田喜八郎氏を偽作者、古田先生を偽作の協力者として、学問的批判の域を超えた誹謗中傷・名誉毀損の限りを尽くしたものでした。その一端をこの度上梓した『東日流外三郡誌の逆襲』で紹介し、反証を行いました。残念ながら偽作説への全ての反論を掲載できなかったので、残りは同書続編に委ねますが、良い機会でもありますので、偽作キャンペーンのテーマになった「興国の津軽大津波伝承」についての偽作説への反証を紹介します。

 偽作キャンペーン誌『季刊 邪馬台国』53号(1994年)に掲載された長谷川成一氏(弘前大学文学部教授・当時)の「津軽十三津波伝承の成立とその性格 ―「興国元年の大海嘯」伝承を中心に―」には、文献史学の立場から次のように述べています。

〝すなわち、「興国元年の大海嘯」はそれを記す何本かの十三藤原氏系図の内容それ自体が荒唐無稽であって、歴史的な事実を記したものとはとうてい考えられない。したがって文献史料からは、その存在を確認するのは不可能であり、大津波は興国元年になかった可能性が非常に高い、と言わざるを得ないのである。(中略)したがって、現段階においては、文献史学の分野からの、これ以上の十三津波へのアプローチはできないし、またその意味もないと思われ、自然科学の分野における解明を期待して擱筆することにしたい。〟(216頁)

 長谷川氏は『東日流外三郡誌』などに記された「十三藤原氏系図の内容それ自体が荒唐無稽」と全否定したため、「文献史学の分野からの、これ以上の十三津波へのアプローチはできないし、またその意味もないと思われ、自然科学の分野における解明を期待して擱筆することにしたい。」と言わざるを得なくなっているわけです。そしてこの論稿の翌年(1995年)に発表した「近世十三湊に関する基礎的考察」(注①)でも同様の所見が見えます。

 〝近年の国立歴史民俗博物館を中心とした、十三湊の本格的な発掘による貴重な成果が、千田嘉博・小島道裕・宇野隆夫・前川要「福島城・十三湊遺跡 1991年度調査概報」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第48集 1993年 所収)として発表され、従来の文献史料を主とした研究に大きな影響を与えた。
(中略)

 自然科学的に津波が存在したか否かは、人文科学系の研究者にとってとうてい解明できる問題ではないが、このたびの中世の十三湊遺跡の発掘調査においては、津波の痕跡は検出されておらず、歴史考古学の立場から津波の存在は否定されたと見て支障なかろう。〟

 このように、長谷川氏は文献史学では興国年間(1340~1345)の津軽大津波伝承の史実性を確認できないとして、考古学的出土報告の所見に従って、『東日流外三郡誌』などに記された興国二年(1341年)あるいは興国元年(1340年)に十三湊を大津波が襲ったとする当地の伝承は歴史事実ではないとするわけです。このような見解は文献史学としても不適切とわたしは考えており、「洛中洛外日記」などで次のように指摘しました(注②)。

 〝江戸時代に「興国の大津波」が伝承されていたことを考えても、「起きもしなかった〝興国の大津波〟を諸史料に造作する、しかも興国年間(元年、二年)と具体的年次まで記して造作する必要などない」と言わざるを得ません。

 これは法隆寺再建論争で、「燃えてもいない寺院を、燃えて無くなったなどと、『日本書紀』編者が書く必要はない」と喝破した喜田貞吉の再建論が正しかったことを想起させます。いずれも、史料事実に基づく論証という文献史学の学問の方法に導かれた考察です。いずれは、発掘調査という考古学的出土事実に基づく実証によっても、証明されるものと確信しています。〟

 こうした視点こそ、文献史学の文献史学たる由縁ではないでしょうか。それでは、長谷川氏が「従来の文献史料を主とした研究に大きな影響を与えた」とする国立歴史民俗博物館の発掘調査報告を見てみることにします。(つづく)

(注)
①長谷川成一「近世十三湊に関する基礎的考察」『国立歴史民俗博物館区研究報告』第64集、1995年。
②古賀達也「洛中洛外日記」3111話(2023/09/12)〝興国の大津波の伝承史料「津軽古系譜類聚」〟
同「興国の津軽大津波伝承の考察 ―地震学者・羽鳥徳太郎の慧眼―」『東京古田会ニュース』215号、2024年。