2025年11月23日一覧

第3553話 2025/11/23

多元史観で見える蝦夷国の真実 (6)

 ―蝦夷(蛮族)か蝦夷国(古代国家)か―

 中国史書の『通典』『唐会要』などには「蝦夷国」と表記されており、中国側は蝦夷国が倭国や日本国と同様に東夷の国と認識しています。他方、『日本書紀』には「蝦夷国」という国名表記は二カ所(斉明紀)しか見えません(この点は後述する)。他方、「齶田(秋田)蝦夷」(斉明紀)・「越蝦夷」(天武紀)・「越蝦蛦沙門」(持統紀)・「陸奧蝦夷沙門」(持統紀)などの用例があり、「蝦夷」を「倭人」などと同様の人種名として使用されています。

 こうした『日本書紀』の「蝦夷」使用例の影響を色濃く受けて、日本古代史学において、国家としての「蝦夷国」という認識が不十分なまま、程度の差はあれ、〝大和朝廷に逆らう東北の未開の蛮族〟として蝦夷研究がなされてきたのではないでしょうか。これは大和朝廷一元史観の通説派だけではなく、わたしたち多元史観・九州王朝説を是とする古田学派においても、七世紀後半頃の日本列島に、倭国(九州王朝)・日本国(大和朝廷)・蝦夷国の三国が鼎立(注①)していたとする多元的歴史観を徹底できなかったように思われます。

 通説では、大和朝廷による東北地方の未開の蛮族である蝦夷を討伐(皇化)しながら、律令制下の陸奧国が北へ東へと拡大するというイメージで説明するのが常であり、国家としての蝦夷国への日本国(大和朝廷)による侵略戦争とする視点がなかったのではないでしょうか。

 わたしは国家としての蝦夷国(「蝦夷」という国名を自称していたかどうかは未詳)が実在したのではないかと考えています。その根拠として、注目すべき八世紀の金石文があります。次の銘文を持つ多賀城碑です(注②)。

「西
多賀城
去京一千五百里
去蝦夷国界一百廿里
去常陸国界四百十二里
去下野国界二百七十四里
去靺鞨国界三千里
此城神龜元年歳次甲子按察使兼鎭守將
軍從四位上勳四等大野朝臣東人之所置
也天平寶字六年歳次壬寅參議東海東山
節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎭守
将軍藤原惠美朝臣朝獦修造也
天平寶字六年十二月一日」

 多賀城碑には「蝦夷国」「靺鞨国」(注③)という日本国以外の国名と、日本国の律令制下の「国」である「常陸国」「下野国」が記されており、当時の大和朝廷の「蝦夷国」認識がうかがえます。同時代の大和朝廷側の金石文ですから、当時の蝦夷国認識を知る上で最も貴重な同時代史料です。なお古田説によれば(注④)、多賀城は蝦夷国内部に位置するとされています。碑文中に「陸奧国」が見えないことも注目されます。(つづく)

(注)
①古田史学・九州王朝説では、中国の王朝(唐)が承認した列島の代表王朝は九州王朝(倭国)であり、701年に九州王朝から大和朝廷(日本国)への王朝交代がなされたとする。近年のわたしの飛鳥・藤原出土荷札木簡研究によれば、七世紀第4四半期頃(天武期)から近畿天皇家は九州島と蝦夷国を除く日本列島を影響下に置いていたと考えられる(古賀達也「七世紀後半の近畿天皇家の実勢力 ―飛鳥藤原出土木簡の証言―」『東京古田会ニュース』199号、2021年)。
②多賀城碑(たがじょうひ)は、宮城県多賀城市大字市川にある奈良時代の石碑(国宝)。当時陸奥国の国府があった多賀城の入口に立ち、神龜元年(724)の多賀城創建と天平寶字六年(762)の改修を伝える。
③靺鞨(まっかつ)は、中国の隋唐時代に満洲・外満洲(沿海州)に存在したツングース系農耕漁労民族の国で、粛慎・挹婁の末裔。
④古田武彦『真実の東北王朝』駸々堂、平成二年(1990)。ミネルヴァ書房より復刻。