2025年12月31日一覧

第3568話 2025/12/31

AI編集(インタビュー形式)

 「戦後型皇国史観に抗する学問」

 令和七年の大晦日、お願いしていた原稿が竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)から届きました。それは拙論「『戦後型皇国史観』に抗する学問 ―古田学派の運命と使命―」(『季報 唯物論研究』138号、2017年)をAI(ChatGPT)により、短文のインタビュー形式に編集したものです。

 同稿は「古田史学の会」創立に至る経緯と、古田学派の運命と使命について論じたものです。執筆にあたっては、「古田史学の会」役員会にはかり、事前にチェックを受けた、言わば「古田史学の会」の綱領的性格を有する一文です。

 令和七年「洛中洛外日記」の最後に、初心を忘れず、決意を新たにすべく、一部修正して転載します。

 《以下、転載》
「邪馬台国」畿内説は学説に非ず ―戦後型皇国史観に抗する学問―
語り:古賀達也(古田史学の会 代表)

◇日本古代史に横たわる「宿痾」とは何か
――まず、日本古代史学が抱えてきた根本的な問題についてお聞かせください。
古賀:日本古代史には、学問以前の「通念」が不動の前提として存在しています。それが、神代の昔から日本列島の中心権力は一貫して近畿天皇家であった、という考え方です。古田武彦先生はこれを「近畿天皇家一元史観」と名づけました。この通念は、『日本書紀』成立以来、ほとんど疑われることなく受け継がれ、戦前だけでなく、戦後の民主教育においても当然視されてきました。しかし、これは学問的な論証を経た結論ではありません。

――その通念が、具体的にどのような問題を生んだのでしょうか。
古賀:最大の問題は、通念に合わない史料事実が無視され、あるいは改変されてきたことです。最も象徴的なのが、『三国志』倭人伝に記された倭国の中心国名「邪馬壹国」を、「邪馬臺(台)国」と書き換えた原文改訂です。

◇「邪馬壹国」から「邪馬台国」へ ――原文改訂の罪
――なぜ、そのような改訂が行われたのですか。
古賀:江戸時代の学者・松下見林が行ったものですが、その理由は実に単純です。「日本の中心はヤマトでなければならない。だからヤマトと読めない『邪馬壹国』はおかしい。ならば『邪馬臺国』に直してしまえばよい」という発想です。これは学問ではなく、イデオロギーです。しかし、この方法がその後の日本古代史学に受け継がれ、宿痾となってしまった。

――それは国名だけの問題ではなかった、と。
古賀:ええ。行程記事にある「南に至る邪馬壹国」の「南」まで、「東」に書き換えられました。南では奈良県に到達しないから、東の誤りだとされたのです。基本史料を自説に合わせて自由に改訂する。これは研究不正以外の何ものでもありません。

◇「邪馬台国」ブームという悲劇
――その結果、「邪馬台国」論争が大衆化したわけですね。
古賀:そうです。学者自身が原文改訂という非学問的方法を採用してしまったため、アマチュア研究者も同じことをやり始めた。「南を東にしていいなら、西でも北でもいい」。結果、全国に邪馬台国候補地が乱立しました。出版ブームも相まって、思いつきを「学説」と称する書籍が溢れ、学問的な負の連鎖が生まれたのです。

――学界はそれを止められなかった。
古賀:止められなかったのではなく、止める資格を失っていたのです。自らが同じ手法を使っていた以上、アマチュアの俗説を真正面から批判できなかった。これが戦後「邪馬台国」ブーム最大の悲劇です。

◇1969年、「邪馬壹国」論文の衝撃
――そこに登場したのが、古田武彦先生の論文ですね。
古賀:1969年、古田先生は「邪馬壹国」という論文を発表しました。倭人伝の原文は「邪馬壹国」であり、「邪馬臺(台)国」は後世の改訂だ、と真正面から論証されたのです。特に重要なのは、『三国志』全体における「壹」と「臺」の使用例をすべて調査した点です。両者は明確に使い分けられており、誤用はない。これは誰もやってこなかった方法でした。

――「臺」という字の意味も重要だったと。
古賀:ええ。『三国志』の時代には「臺」は魏の天子やその宮殿をも指す、いわば神聖至高の文字でした。それを当時の史官が夷蛮の国名に使うなど、あり得ない。この論文は、それまでの恣意的な原文改訂を根底から否定し、日本古代史研究を異次元の高みに引き上げました。

◇九州王朝説と「多元史観」
――続いて提示されたのが、九州王朝説ですね。
古賀:『失われた九州王朝』で、古田先生は邪馬壹国の後継として北部九州に存在した「九州王朝」を明らかにしました。『旧唐書』には「倭国」と「日本国」が別国として記されています。倭国(九州王朝)は邪馬壹国の後継であり、日本国(大和朝廷)は後にそれを併合した小国だった、と。

――この理解が「多元史観」につながる。
古賀:そうです。日本列島には複数の王朝が並立・興亡していた。これが多元史観です。これは近畿天皇家一元史観と、地動説と天動説ほどに相容れません。

◇市民運動としての古田史学
――古田史学は、市民運動としても広がりました。
古賀:はい。通説に疑問を持つ多くの人々が支持し、「市民の古代研究会」などが生まれました。私もその一人で、1986年に参加しました。一時は会員が千名近くに達しましたが、その影響力に危機感を抱いた学界から、露骨な「古田外し」が始まりました。

◇学界からの排除と「古田史学の会」の誕生
――某新聞社主催シンポジウムからの排除などもあったそうですね。
古賀:古田先生の参加が決まると、他の全パネラーが出ないと言いだす。そのことを古田先生には知らせないまま、先生抜きでシンポジウムが開催されました。その後、東日流外三郡誌をめぐる偽作キャンペーンが起こり、事態は決定的になります。

――そこから「古田史学の会」が生まれた。
古賀:1994年、迫害に屈しない研究者が集まり、「古田史学の会」を創立しました。以来、会誌や論文集を刊行し、九州年号や邪馬壹国研究を発展させてきました。

◇古田学派の運命と使命
――最後に、古田学派の使命をどう考えていますか。
古賀:古田史学の会は、学術研究団体であると同時に社会運動団体でもあります。この二重性を背負うという、複雑で過酷な運命にあります。しかし私は、古田史学が将来この国で必ず受け入れられると信じています。古田史学を継承し、発展させる。それが私たち古田学派に課された歴史的使命だと考えています。
《転載おわり》

 それでは皆様、良いお年をお迎え下さい。