2025年12月一覧

第3556話 2025/12/10

『古田史学会報』191号の紹介

 『古田史学会報』191号を紹介します。同号には拙稿〝荻上命題と古田論証 ―邪馬壹国の証明―〟と〝蝦夷国の「山神社」考〟を掲載して頂きました。前者では古田史学・古田説の根幹である「邪馬壹国」説に至った古田先生の学問の方法について詳述しました。後者はわたしが進めている蝦夷国研究の一環として、東北地方に濃密分布する山神社について論じたもので、「山神」信仰の淵源が古代蝦夷国に遡る、いわば倭国の「天神」信仰に比肩する蝦夷国の信仰とする仮説を提起しました。

 本号には、拙論や谷本稿のように、文献史学の方法について論究した論稿が並び、古田学派にふさわしいものとなりました。正木稿の、不改常典を天孫降臨以来の九州王朝の統治の根拠である「天壌無窮の神勅」とする新説は注目されます。諸説ある不改常典研究での論争・検証が待たれます。

 拙著『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店)の書評が池上洋史さんから寄せられ、同書続編の執筆にあたり参考となりました。
191号に掲載された論稿は次の通りです。

【『古田史学会報』191号の内容】
○荻上命題と古田論証 ―邪馬壹国の証明― 京都市 古賀達也
○『新唐書』日本伝のより深い理解に向けて ―國枝浩氏の批評に答える― 神戸市 谷本 茂
○生島神社と『祝詞』(二) 上田市 吉村八洲男
○古田武彦記念古代史セミナー2025(八王子セミナー)参加の記 千葉市 倉沢良典
○推古紀の裴世清は隋の使者ではありえない! ―野田利郎氏の史料解釈方法への諸疑問― 神戸市 谷本 茂
○蝦夷国の「山神社」考 京都市 古賀達也
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○王朝交代と『不改の常典』 川西市 正木 裕
○『東日流外三郡誌の逆襲』の感想 宇治市 池上洋史
○古田史学の会・関西例会のご案内
○新春古代史講演会のご案内(2026年1月18日、茨木市「おにクル」)
○編集後記 高松市 西村秀己

『古田史学会報』への投稿は、
❶字数制限(400字詰め原稿用紙15枚)に配慮し、
❷テーマを絞り込み簡潔に。
❸論文冒頭に何を論じるのかを記し、
❹史料根拠の明示、
❺古田説や有力先行説と自説との比較、
❻論証においては論理に飛躍がないようご留意下さい。
❼歴史情報紹介や話題提供、書評なども歓迎します。
読んで面白く、読者が勉強になるわかりやすい紙面作りにご協力下さい。

 また、「古田史学の会」会則に銘記されている〝会の目的〟に相応しい内容であることも必須条件です。「会員相互の親睦をはかる」ことも目的の一つですので、これに反するような投稿は採用できませんのでご留意下さい。なお、これは会員間や古田説への学問的で真摯な批判・論争を否定するものでは全くありません。

《古田史学の会・会則》から抜粋
第二条 目的
本会は、旧来の一元通念を否定した古田武彦氏の多元史観に基づいて歴史研究を行い、もって古田史学の継承と発展、顕彰、ならびに会員相互の親睦をはかることを目的とする。
第四条 会員
会員は本会の目的に賛同し、会費を納入する。(後略)


3555話 2025/12/09

多元史観で見える蝦夷国の真実 (8)

  古田先生の蝦夷国観

   (『失われた九州王朝』)

 このシリーズでは、蝦夷国を独立した国家とする多元史観に基づく認識が必要であることを主張していますが、これはわたしが古田史学に入門以来、抱き続けた問題意識でした。その学問的背景にあったのは古田武彦初期三部作の一つ、『失われた九州王朝』(注①)の次の一節です(ミネルヴァ書房版 213~217頁)。要約して紹介します。

「蝦夷国 本書の論証の目指すところは、九州に連続した王権にあった。これと近畿の王権との関連が焦点となってきたのである。けれども、これと対をなすべき問題がある。近畿の王権の、さらに東方に位置した「蝦夷国」の問題だ。」

 このような書き出しの後、「洛中洛外日記」3554話(2025/12/01)〝多元史観で見える蝦夷国の真実(7) ―唐と倭国(九州王朝)と蝦夷国の関係―〟でも紹介した『日本書紀』斉明紀(斉明五年)の蝦夷記事を取り上げて、次のように指摘します。

「ハッキリいえば、何か〝珍獣〟まがいの扱いだ。(中略)

 このような『日本書紀』の文面にふれたあと、わたしは中国側の文献『冊府元亀(さっぷげんき)』(注②)の中に、つぎの文面を見出して、ハッと胸を突かれた。「(顕慶四年、六五九、高宗)十月、蝦夷国、倭国の使に随いて入朝す」〈冊府元亀、外臣部、朝貢三〉。ここでは、蝦夷国人は観賞用の「珍獣」でも、「珍物」でもない。レッキとした蝦夷国の国使として、唐朝に貢献してきた、と記録されている。年代も『日本書紀』とピッタリ一致している。」

 そして、結論として次のようにまとめています。

 「以上の結論と関連事項を記そう。
(一)『日本書紀』本文は、日本列島全体を〝近畿天皇家の一元支配下〟に描写した。ために、「蝦夷国」を日本列島東部の、天皇家から独立した国家とする見地を、故意に抹殺して記述している。これは九州に対し、たとえば磐井を「国造」「叛逆」として描写するのと同一の手法である。

(二)「蝦夷国の国使派遣」は、歴史事実であるにもかかわらず『旧唐書』『新唐書』には記されていない。これは舒明二年(六三〇)の近畿天皇家派遣の遣唐使が、『旧唐書』や『新唐書』に記載されていないのと同じ扱いである。すなわち、倭人を代表する王権ではなく、辺域に国家として、いまだ『旧唐書』などの「正史」には記載されていないのである。

(三)なお、これと類似した現象は、『冊府元亀』の「琉球国」の記事においてもあらわれている。「煬帝、大業三年(六〇七)三月、羽騎尉朱寛を遣わして、琉球国に使せしむ」〈冊府元亀、外臣部、通好〉。ただし、「琉球国」の場合は、『隋書』俀国伝においても、すでに、「俀国」とは別個に出現している。
以上、日本列島内の多元的国家の共存状況と、『日本書紀』の一元的描写。――両者の対照があざやかである。」

 五十年前に出版された『失われた九州王朝』にある、古田先生の蝦夷国観こそ、本シリーズを貫くわたしの蝦夷研究のバックボーンなのです。(つづく)

(注)
①古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和48年(1973)。ミネルヴァ書房より復刻。
②『冊府元亀』は北宋時代に成立した類書。王欽若・楊億らが真宗の勅命により大中祥符六年(1013)に完成させた。巻数は1000巻に及び、分類は31部1104門(実際は1116門)。


第3554話 2025/12/01

多元史観で見える蝦夷国の真実 (7)

 ―唐と倭国(九州王朝)と蝦夷国の関係―

『日本書紀』に「蝦夷国」という国名表記は斉明五年(三月)是月条と同七月条「伊吉連博德書」中の二ヶ所に見えます。次の通りです。要点のみ抜粋引用します。

○斉明五年(659年・三月)是月条
阿倍臣〈名を闕(もら)せり〉を遣して、船師一百八十艘を率いて、蝦夷國を討つ。阿倍臣、飽田・渟代二郡の蝦夷二百卌一人、其の虜卅一人、津輕郡の蝦夷一百十二人、其の虜四人、膽振鉏(いふりさへ)の蝦夷廿人を一所に簡(えら)び集めて、大きに饗(あへ)たまひ祿(もの)賜ふ。〈膽振鉏、此を伊浮梨娑陛(いふりさへ)と云ふ〉卽(すなは)ち船一隻と五色の綵帛(しみのきぬ)とを以て、彼地の神を祭る。肉入籠(ししりこ)に至る。時に菟(とひう)の蝦夷膽鹿嶋(いかしま)・菟穗名(うほな)、二人進みて曰く、「後方羊蹄(しりへし)を以て、政所とすべし。」〈肉入籠、此を之々梨姑(ししりこ)と云ふ。問菟、此を塗毗宇(とひう)と云ふ。菟穗名、此を宇保那(うほな)と云ふ。後方羊蹄、此を云斯梨蔽之(しりへし)と云ふ。政所は蓋(けだ)し蝦夷の郡か〉膽鹿嶋(いかしま)等が語(こと)に隨ひて、遂に郡領を置きて歸る。(後略)

○斉明五年(659年)七月条
秋七月丙子朔戊寅(三日)に、小錦下坂合部連(むらじ)石布・大仙下津守連吉祥を遣(つかは)して、唐國に使(つかい)せしむ。仍(よ)りて道奧の蝦夷男女二人を以て、唐の天子に示す。
〈伊吉連博德(はかとこ)の書に曰く、「同天皇の世に、小錦下坂合部石布連・大山下津守吉祥連等が二船、呉唐の路に奉使(つかは)さる。己未の年(659年)の七月三日を以て、難波三津の浦より發(ふなだち)す。八月十一日に筑紫大津の浦より發す。(中略)潤十月一日に越州の底(もと)に行到(いた)る。十五日に驛(はいま)に乘り京に入る。廿九日に、馳(は)せて東京に到る。天子、東京に在(ま)します。卅日に、天子相見て問訊(と)ひたまはく、日本國の天皇、平安(たひらか)にますや不(いな)やと。(中略)天子問ひて曰く、此等の蝦夷國は何れの方に有るぞや。使人謹みて答ふ、國の東北に有り。天子問ひて曰く、蝦夷は幾種ぞや。使人謹みて答ふ、類(たぐひ)三種有り。遠き者をば都加留と名づけ、次の者をば麁(あら)蝦夷と名づけ、近き者をば熟(にき)蝦夷と名づく。今此れは熟蝦夷なり。歳毎に本國の朝(みかど)に入貢す。天子問ひて曰く、其の國に五穀有りや。使人謹みて答ふ、無し。肉を食いて存活(わたら)ふ。天子問ひて曰く、國に屋舍有りや。使人謹みて答ふ、無し。深山の中にして、樹の本に止住(す)む。天子重ねて曰く、朕、蝦夷の身面の異なるを見て、極理(きはま)りて喜び怪しむ。使人遠くより來(きた)て辛苦(たしな)からむ。退(まか)りて館裏に在れ。後に更(また)相見む。(後略)」〉
〈難波吉士(きし)男人の書に曰く、「大唐に向(ゆ)ける大使、嶋に觸(つ)きて覆(くつが)へる。副使、親(みづか)ら天子に覲(まみ)へて、蝦夷を示(み)せ奉(たてまつ)る。是(ここ)に、蝦夷、白鹿の皮一つ・弓三つ・箭(や)八十を以て、天子に獻(たてまつ)る。」(後略)〉

斉明五年(659年・三月)是月条は、九州王朝時代の記事ですから、九州王朝(倭国)による蝦夷国への侵攻の記録史料に基づくものと思われます。ここでは明確に「蝦夷國を討つ」とありますから、九州王朝は蝦夷国を国家と認識していたと思われます。しかし、その後の記事に依れば、蝦夷らを集めて「大きに饗(あへ)たまひ祿(もの)賜ふ」とあり、実際には戦闘が行われた雰囲気でもありません。また、「政所は蓋(けだ)し蝦夷の郡か」とする記事から、蝦夷国は「政所」と呼ばれる行政単位を持っていたことがうかがえます。国家であれば、国内統治のために下位の行政単位を持つことは当然ではないでしょうか。

その「政所」に「遂に郡領を置きて歸る」とあることから、後方羊蹄の「政所」に「郡領」、実際には「評督」を置き、阿倍臣らは九州王朝に帰国したのではないでしょうか。七世紀中頃に九州王朝は全国に評制を施行し、評督を任命していますから、その一環として蝦夷国にも評制を施行しようとした記事が、この斉明五年是月条の記事だったのではないでしょうか。

斉明五年(659年)七月条も、「道奧の蝦夷男女二人を以て、唐の天子に示す」とあり、九州王朝(倭国)の使者に同行して蝦夷国の使者が唐の天子に謁見したことがうかがえます。

伊吉連博德書にはより詳しく謁見の様子が記されており、「天子問ひて曰く、此等の蝦夷國は何れの方に有るぞや」とあり、唐の天子は蝦夷国を「国」と認識していたことがわかります。

「難波吉士男人書」には、「蝦夷、白鹿の皮一つ・弓三つ・箭八十を以て、天子に獻る」とあり、この「蝦夷」とは蝦夷国から唐への朝貢使であったことがわかります。

これらの蝦夷国記事については、古田武彦氏が早くから着目されていました。(つづく)

〖写真説明〗
“北海道博物館開館記念特別展” 蠣崎波響 「夷酋列像」展 ( いしゅうれつぞう)