2026年02月一覧

第3587話 2026/02/02

「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (11)

 ―写真裏書「和田長三(郎)」への疑義―

 「秋田重季氏ら記念写真」(藤本光幸氏遺品)に見える前列左端の坊主頭の若者が、同写真裏書きに見える「和田長三(郎)」である和田元市氏(喜八郎氏の父)であることはほぼ確認できたように思いますが、なお一つの疑問があり、わたしは悩んできました。それは、写真撮影当時の大正10年(推定)、元市氏はまだ21歳であり、父親の長作氏(当時47歳)は健在です。このとき若き元市青年が、はたして和田家当主の「長三郎」を襲名できたのかという疑問です。

 そこでまず考えたのが写真裏書きの史料性格です。写真裏書きに見える他の四名の名前、天内・林・秋田重(季)・綾小路が正確であったことから、何らかの関連文書に基づいて書かれたものと考えざるを得ませんから、「和田長三(郎)」もその関連文書に基づいて記されたと考えるのが妥当です。そうでなければ、「和田長三(郎)」ではなく、「和田元市」と書かれたはずですから。また関連文書もなく、写真の人物を見て、これらの名前を書くことはまず不可能でしょう。貴族院子爵議員の秋田重季氏や綾小路護氏だけであれば、全国的な著名人ですから、他の情報に基づき、人物を特定できたかもしれませんが、天内兼太郎氏や森林助氏はわからないのではないでしょうか。

 従って、これらの人物名が書かれた資料の存在を疑えないのです。そうすると考えられるのが、同写真の下部が切り取られていることから、この切り取られた部分に人物名が印字されていた可能性が有力であり、それに基づいて裏書きが記され、その後、何らかの事情によりその部分が切り取られたと考えるのが最有力と思われます。この理解が当たっていれば、この写真の撮影時と人物名入り記念写真として焼き増しされた時期は異なると考えることができます。そこで注目されるのが、写真左上の円内にある高齢の人物です。このように集合写真の上部に人物が付加される例は卒業写真などでお馴染みです。集団の記念写真撮影時に欠席した人の写真を付け加えるという手法です。

 しかし今回の写真は、東京から津軽に旅行した子爵議員二名が旅館(料亭)の女将や芸妓と手をつなぐという極めてプライベートなものです。従って、円内に「不参加の高齢の人物」写真を付加しているのは、卒業写真などとは全く異なった目的によると考えざるを得ません。そこで、わたしは次のように考えてみました。この写真は秋田重季氏晩年(昭和33年、1958年没)に焼き増しされたもので、その際、上部左の円内に晩年の自らの写真を加え、写真下部の余白部分に参加者の名前を印字した。従って、重季氏晩年であれば元市氏は「長三郎」を襲名していたと考えられ、先にあげた疑問は解消されます。

 この推定であれば、同写真とその裏書きの史料状況をうまく説明できます。この仮説の当否を証明する方法もあります。晩年の秋田重季氏の写真を確認することです。この調査のため、秋田家へのアプローチなどを試みてきましたが、今のところ実現できていません。(つづく)


第3586話 2026/02/01

「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (10)

 ―写真裏書「和田長三(郎)」の考察―

 「秋田重季氏ら記念写真」(藤本光幸氏遺品)に、並んで写っている男性六名中の前列左端、坊主頭の若者が同写真裏書きに見える「和田長三(郎)」であれば、それは和田家仏壇の上に架けられた和田元市氏(喜八郎氏の父)遺影との一致により、元市氏の若い頃である可能性が最有力候補となります(注①)。この判断が正しければ、和田家(青森県五所川原市飯詰)と秋田子爵家(東京)との交流が明治・大正時代に遡ることを証明する写真となります。

 「東日流外三郡誌」偽作キャンペーンでは、和田家と秋田子爵家との交流は『東日流外三郡誌』が有名になった昭和六十年頃からであり(注②)、それまでは無関係と主張していました。「東日流外三郡誌」明治写本を書写した和田長三郎末吉(喜八郎氏の曾祖父)と秋田子爵家との交流が、和田家文書(寛政原本の写本ではなく、末吉が明治期に執筆した部分)に少なからず遺されており、偽作論者はそれらの記事を和田喜八郎氏による偽作として退けてきました。しかし、この写真の人物が和田長三郎元市であれば、そうした偽作説を否定する証拠となります(和田家では代々の当主が「長三郎」を襲名)。

 「洛中洛外日記」3585話で説明したとおり、この写真の撮影時期が大正10年であれば、和田元市氏21歳の写真となり、年齢が判明している他の五名の男性の風貌と比べても、妥当な年齢であることがわかります。大正10年時点の年齢は次の通りです。
❶天内兼太郎(1885~1985) 36歳
❷森 林助 (1880~1935) 41歳
❸菊池 巍 (1876~1934) 45歳
❹和田元市 (1900~1981) 21歳
❺秋田重季 (1886~1958) 35歳
❻綾小路護 (1892~1973) 29歳
(つづく)

(注)
①記念写真中の男性(全七名)で、調査により判明した六名は下記の通り。写真左上円内の人物は未詳。秋田重季氏の晩年の写真かもしれないが、そうと断定できるほどの根拠が今のところない。
[後列]
❶天内兼太郎(1885~1985) 弘前中学教師 《男A》「天内」
❷森 林助 (1880~1935) 弘前中学教師 《男B》「森」
❸菊池 巍 (1876~1934) 弘前中学教師 《男C》不記載
[前列]
❹和田元市 (1900~1981)        《男D》「和田長三(郎)」
❺秋田重季 (1886~1958) 貴族院子爵議員《男E》「秋田重(季)」
❻綾小路護 (1892~1973) 貴族院子爵議員《男F》「綾小路」
※《》内は裏書きの文字。写真下部が切り取られているため、切り取られた部分にあると思われる()内の字は、推定による。
②昭和62年7月30日、秋田家当主の秋田一季氏(重季氏の子息。1915~1997)が安倍晋太郎氏(安倍家も始祖を津軽の安日王〈東日流外三郡誌に見える安日彦〉とする)と共に石塔山神社を訪れ、植樹している。石塔山神社収蔵庫を見学する安倍洋子さん(暗殺された安倍晋三元総理大臣の母)の写真もある(年次不明)。安倍洋子さんは和田喜八郎氏の葬儀(1999年)にも参列しており、両家の深い関係をうかがわせる。

 古田武彦先生から聞いた話だが、喜八郎氏の紹介で秋田一季氏に会う際、会話の冒頭に「おそれながら」、末尾に「~でございます」と敬語を使うよう、喜八郎氏からきつく言われたとのことであった。ちなみに、喜八郎氏は一季氏を「秋田様」「殿(との)」と呼んでいた。いかにも時代がかった表現だが、そのときの喜八郎氏の表情は真剣そのものであった。