2026年03月09日一覧

第3601話 2026/03/09

「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (13)

 ―慶應義塾と東奥義塾の関係―

 「秋田重季氏ら記念写真」(藤本光幸氏遺品)に見える写真左上円内の人物を弘前市初代市長の菊池九郎(1847・弘化4年~1926・大正15年)ではないかとするメールが菊池哲子さん(福岡県久留米市)から届きました。Wikipediaには菊池九郎について次の説明があります。要約し転載します。

【菊池 九郎 (きくち くろう)】
1847年(弘化4年)~1926年(大正15年)は、弘前藩士、教育者、官吏、政治家。東奥義塾創立者。『東奥日報』創刊者。初代・第7代弘前市長、山形県知事、農商務省農務局長、衆議院全院委員長等を歴任。
津軽藩士菊池新太郎の長男として弘前城下に生まれる。藩校・稽古館に学び、1864年(元治元年)より同館で司監を務める。戊辰戦争に際し脱藩して奥羽越列藩同盟のために奔走。戦争後、弘前藩に捕えられたが、赦されて藩の参事となる。
1868年(明治元年)、弘前藩主・津軽承昭に随行し慶應義塾に入る。
1870年(明治3年)、鹿児島留学し、西郷隆盛に心酔。帰郷後、旧藩主津軽承昭の援助をうけ、東奥義塾を創立。上京して福澤諭吉と面会。東奥義塾は創立当初は「慶應義塾弘前分校」的色彩が強かった。
1877年(明治10年)、西南戦争が勃発。東奥義塾門下生を引き連れ上京。東京で待機中に西南戦争は終わる。
1888年(明治21年)、『陸奥新聞』に対抗し、民権伸長の為『東奥日報』を創立(初代社長)。
1889年(明治22年)、初代弘前市長に就任。第1回衆議院議員総選挙で当選。以後当選9回。
1897年(明治30年)、第6代山形県知事に就任。
1908年(明治41年)、衆議院全院委員長に就任。
1911年(明治44年)、第7代弘前市長(1911~1913年)に再就任。
1926年(大正15年)、藤沢市で死去。葬儀は東奥義塾葬としてキリスト教式で行われた。

 以上のように波瀾万丈の人生をおくった菊池九郎は、明治の弘前を代表する教育者・政治家です。慶應義塾に入学し、後に弘前に東奥義塾を開学するなど、福澤諭吉との深い関係が注目されます。こうしたことを根拠に、菊池哲子さんは写真円内の人物の候補として菊池九郎を提案されました。たしかにWEB上の菊池九郎の写真と比較しても似ているように思いました。

 そこで確認のために、弘前市出身の偉人を研究されているHさん(弘前市在住)に集合写真などを送り、意見を求めたところ、菊池九郎は「写真の人物とは似ていない。年齢も離れている。」との返答が届きました。確かに、秋田重季氏らの集合写真が大正10年と仮定すると、その時の菊池九郎は75歳です。写真の人物はもっと若く見えます。こうして、菊池九郎説はペンディングとしました。(つづく)