2026年03月16日一覧

第3608話 2026/03/16

國枝浩「『夷狄』考」の衝撃 (8)

 ―周代戦国期の史料批判―

 本シリーズの冒頭(注①)で、國枝稿(注②)について次のように指摘し、自ら周代史料の再検討を行いました。

(ⅰ)前漢代に成立した『史記』などに、「夷狄戎蛮」と方角(東西南北)が結びつける記事があるという史料事実は、前漢代の認識を示す史料根拠には使えても、〝周代にそうした認識はなかった〟とする根拠にはできない。
(ⅱ)孔子の認識を確認するためには、『論語』だけではなく、孔子と同時代(春秋期)か、せめてその直後(戦国期)の史料に基づくことが必要である。

 そして、『孟子』の「東夷」「西夷」、精華簡『繋年』の「西戎」、『爾雅』の「九夷」、『山海経』の「倭」などを紹介してきました。ここで一旦立ち止まり、これら周代戦国期の史料が示す夷蛮戎狄とその方角について考察してみます。

❶『孟子』「離婁篇第四上」
〔原文〕孟子曰。舜生於諸馮。遷於負夏。卒於鳴條。東夷之人也。文王生於岐周。卒於畢郢。西夷之人也。地之相去也。千有餘里。世之相後也。千有餘歳。得志行乎中國。若合符節。先聖後聖其揆一也。」
〔釋文〕孟子曰わく、舜は諸馮(しょひょう)に生まれ、負夏(ふか)に遷(うつ)りて、鳴條(めいじょう)に卒(おわ)る、東の夷(えびす)の人なり。文王は岐周に生まれ、畢郢(ひつえい)に卒る。西の夷の人なり。地の相い去ることは千有餘里、世の相い後(おく)るるは千有餘歳なるも、志を得て中国に行えることは、符節(わりふ)を合わすがごとし。先聖も後聖も、その揆(みち)は一つなり。

 大意は、東夷の舜(先聖。夏王朝建国期の帝)と西夷の文王(後聖。殷を滅ぼし周王朝を建国した武王の父)は、生きた時代も住んだ地も離れているが、二人の行いは全く一致している、というもの。ここでは東夷も西夷も聖人の地として使用されています。すなわち、孟子は中華の東西の端を「夷」と呼んでいたことがわかります。

❷精華簡『繋年』第二章
〔原文〕周幽王取妻于西申、生平王、王或(又)取褒人之女、是褒姒、生伯盤。褒姒嬖于王、王與伯盤逐平王、平王走西申。幽王起師、回(圍)平王于西申、申人弗畀、曾人乃降西戎、以攻幽王、幽王及伯盤乃滅、周乃亡。
〔釋文〕周の幽王、妻を西申より取り、平王を生む。王或いは褒人の女を取り、是れ褒姒にして、伯盤を生む。褒姒、王に嬖せられ、王と伯盤と平王を逐(お)い、平王西申に走る。幽王師を起し、平王を西申に回(かこ)み、申人弗畀(おそ)れず、曾人乃ち西戎に降りて、以て幽王を攻め、幽王と伯盤と乃ち滅び、周乃ち亡ぶ。

 紀元前四世紀(炭素年代測定による)、周代戦国期の同時代史料(竹簡)に「西戎」の用例が見え、「夷狄戎蛮」と方角(東西南北)の結びつけが周代戦国期に行われていたことがわかります。

❸『爾雅』「釋地第九」
〔原文〕東至靯泰遠、西至於邠國、南至於濮鈆、北至於祝栗、謂之四極。觚竹、北戸、西王母、日下,謂之四荒。九夷、八狄、七戎、六蠻、謂之四海。岠齊州以南、戴日爲丹穴、北戴斗極爲空桐、東至日所出爲大平、西至日所入爲大蒙。大平之人仁、丹穴之人智、大蒙之人信、空桐之人武。——四極。
〔釋文〕東は靯泰遠に至り、西は邠国に至り、南は濮鈆に至り、北は祝栗に至る、これを四極という。觚竹、北戸、西王母、日下、これを四荒という。九夷、八狄、七戎、六蛮、これを四海という。岠斉州の南、日を戴くところを丹穴と為し、北は斗極を戴くところを空桐と為し、東は日が出るところを大平と為し、西は日が入るところを大蒙と為す。大平の人は仁、丹穴の人は智、大蒙の人は信、空桐の人は武。——四極。

 これは東西南北方向にある四極・四荒・四海を論じた記事。その四海の冒頭に「九夷」とあり、「八狄」「七戎」「六蛮」と続き、これを「四海と謂う」とあります。四海とは四方向(東西南北)にある「海」のことですから、「九夷」「八狄」「七戎」「六蛮」とは東夷・北狄・西戎・南蛮に相当します。『爾雅』成立時には、方位と夷狄戎蠻を結びつけて表記していたことがわかります。

❹『山海経』「海内北経」
〔原文〕蓋國在鉅燕南、倭北。倭屬燕。
〔釋文〕蓋國は鉅燕(きょえん)の南、倭の北に在る。倭は燕に屬す。

❺『山海経』「海内東経」
〔原文〕鉅燕在東北陬。
〔釋文〕鉅燕は東北の陬(隅)に在る。

 ❹は蓋國の位置を示したもの。鉅燕とは❺の通り、中華(海内)の中の東北の隅にある大国燕(えん)のことです。その南にある蓋國は朝鮮半島の国と思われ、その蓋國は倭の北にあると記されています。従って、倭は朝鮮半島の南岸、あるいは朝鮮半島南岸と日本列島を含む領域と思われます。「倭は燕(えん)に屬す」とありますから、倭は周の天子の下の燕国に政治的に属していたことになります。すなわち、燕を介して周と倭の国交があったことをも示唆しています。

 以上の考察から、國枝稿の下記の指摘のうち、(c)は成立しないことが明らかになったように思います。

(a)『論語』には「夷狄」の語は見えるが、「東夷」「北狄」のように方角とは結びつけられていない。
(b)このことから、孔子の時代(周代春秋期・紀元前六世紀頃)の「夷狄」は周辺の未開の異民族と認識されるにとどまっている。
(c)「夷狄戎蛮」と方角(東西南北)が結びつけられるのは、司馬遷の『史記』やその影響を受けた後代の『論語』解説書による。
(d)従って、『論語』「公冶長」などを根拠として、孔子が東夷の国としての倭国(日本列島)の存在を知っていたとする古田説(注③)は『史記』に幻惑されたものであり成立しない。

 少なくとも周代戦国期には、「東夷」の国として倭は周と交流していたことを周代戦国期史料は示しています。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3590話(2026/02/08)〝國枝浩「『夷狄』考」の衝撃 (1) ―孔子は東夷(倭国)を知っていたか―〟。
②國枝浩「『夷狄』考 ―『論語』と『史記』より―」『東京古田会ニュース』226号、2026年。
③古田武彦『邪馬一国への道標』講談社、一九七八年。ミネルヴァ書房より復刻。