第2720話 2022/04/14

万葉歌の大王 (8)

 ―「遠の朝庭」と「筑紫本宮」―

 本シリーズの発端となった人麿の歌「大王の遠の朝庭(みかど)」(注①)について、わたしは次のように理解しました。

(ⅰ) 「朝庭」を筑紫の朝庭とする古田先生の理解(注②)は正しい。
(ⅱ) 「大王」は「遠の朝庭」(太宰府)から遠く離れた地にいる。
(ⅲ) 「大王の遠の朝庭」とあるからには、「遠の朝庭」は「大王」の「朝庭」である。
(ⅳ) この歌の時代が七世紀であれば、「大王」も「遠の朝庭」も九州王朝(倭国)のことと考えざるを得ない。
(ⅴ) 八世紀の歌であれば大和朝廷の「大王」(天皇)のこととなるが、筑紫(太宰府)に大和朝廷が自らの「朝庭」を置いたことはない。
(ⅵ) 従って、「遠の朝庭」は筑紫にある九州王朝の「朝庭」のことであり、「大王」は九州王朝の天子であり、このとき筑紫から遠くはなれた〝近つ朝庭(みかど)〟とでも言うべき所に九州王朝の「大王」(天子)はいたと考えられる(注③)。
(ⅶ) 以上ような、この歌の解釈に整合するのが九州王朝の両京制(注④)という概念である。

 この両京制の両京とは、筑紫太宰府(倭京)と前期難波宮(難波京)のことですが、朱鳥元年(686)の前期難波宮焼亡後は太宰府(倭京)と藤原京になるのかもしれません。ここで思い起こされるのが、「洛中洛外日記」777話(2014/08/31)〝大宰帥蘇我臣日向〟などで紹介(注⑤)した『二中歴』「都督歴」に見える次の記事です。

 「今案ずるに、孝徳天皇大化五年三月、帥蘇我臣日向、筑紫本宮に任じ、これより以降大弐国風に至る。藤原元名以前は総じて百四人なり。具(つぶさ)には之を記さず。(以下略)」〈古賀訳〉

 鎌倉時代初期に成立した『二中歴』に収録されている「都督歴」には、藤原国風を筆頭に平安時代の「都督」64人の名前が列挙されていますが、それ以前の「都督」の最初を孝徳期の「大宰帥」蘇我臣日向としています。
 また、ここに見える「筑紫本宮」という表記は、筑紫本宮以外の地に「別宮」があったことが前提となる表記であり、「別宮」とは前期難波宮(難波別宮)ではないかと考えました。しかし、「本宮」に対応するのは「新宮」とした方がよいことに気づきました。たとえば、「本薬師寺」と「新薬師寺」のようにです。七世紀前半(九州年号の倭京元年、618年)に造営された太宰府条坊都市(倭京)が「筑紫本宮」であれば、七世紀中頃(九州年号の白雉元年、652年)に造営された前期難波宮(難波京)を「難波新宮」とするのは極めて妥当です。
 なお、この両京制は、首都とその代替・予備都市としての副都というよりも、権威の都(倭京・筑紫本宮)と権力の都(難波京・難波新宮)のように、評制による全国統治のための機能分離によるものとわたしは理解しています。(つづく)

(注)
①『万葉集』巻三 304
 大君(大王)の 遠の朝廷とあり通ふ 島門を見れば 神代し思ほゆ
[題詞] 柿本朝臣人麻呂下筑紫國時海路作歌二首
[原文] 大王之 遠乃朝庭跡 蟻通 嶋門乎見者 神代之所念
②古田武彦『人麿の運命』原書房、平成六年(1994)。ミネルヴァ書房より復刻。
③「近つ飛鳥」「遠つ飛鳥」、「近つ淡海」「遠つ淡海」のように、「遠」に対応するのは「近」であることから、「遠の朝庭」に対応するのは「近つ朝庭」である。すなわち、「近つ朝庭」の存在がなければ、「遠の朝庭」という表現は成立し難いのではあるまいか。
④古賀達也「洛中洛外日記」2663~2681話(2022/01/16~02/11)〝難波宮の複都制と副都(1)~(10)〟
⑤古賀達也「洛中洛外日記」655話(2014/02/02)〝『二中歴』の「都督」〟
 同「洛中洛外日記」777話(2014/08/31)〝大宰帥蘇我臣日向〟
 同「『都督府』の多元的考察」『発見された倭京 ―太宰府都城と官道』(『古代に真実を求めて』21集)明石書店、2018年。

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