第2729話 2022/04/25

天武紀の「倭京」考 (2)

 新庄宗昭さんが指摘された天武紀の次の「倭京」記事は重要です。

 「庚子(12日)に、倭京に詣(いた)りて、嶋宮に御す。」『日本書紀』天武元年(672)九月条

 これは壬申の乱に勝利した天武が倭京に至り、嶋宮に居したという記事ですが、岩波書店の日本古典文学大系『日本書紀』で「詣」の字を「いたりて」と訓でいることに新庄さんは疑義を呈されました。「詣」の意味は貴人のもとへ参上する、あるいは神仏にお参りすることであり、下位者が上位者を訪れるという上下関係の存在を前提とした言葉であり、ここは「詣(もう)でて」と訓むべきとされました。そして、天武が詣でた倭京には近畿天皇家とは別の上位者がいたと理解されたわけです。
 この史料解釈により、壬申の乱のときには飛鳥には既に倭京があり、その宮殿は飛鳥浄御原宮と称され、藤原京の先行条坊が倭京の痕跡であると結論づけられました。「詣」の一字に着目された鋭い指摘です。仮説としては成立していると思いますが、学問的には次の検証作業が不可欠です。古田先生がよく用いられた史料中の全数調査です。この場合、『日本書紀』に見える「いたる」という動詞にはどのような漢字が用いられているのか、「詣」の字がどのような意味で使用されているのかという調査です。『日本書紀』の全数調査の結果、「詣」の字が上下関係を表す「もうでる」という意味でしか使用されていなければ、この新庄説は証明され、有力説となります。
 この証明は、新仮説を提起された新庄さんご自身がなされるべきことですが、取り急ぎ天武紀を中心に『日本書紀』を確認したところ、日本古典文学大系『日本書紀』で、「いたる」と訓まれている例として次のような漢字がありました。

 「至る」「到る」「及る」「詣る」「逮る」「臻る」「迄る」「及至る」

 「至る」が最も多く使用されていますが、問題となっている「詣」が他にもありました。次の通りです。

 「是(ここ)に、赤麻呂等、古京に詣(いた)りて、道路の橋の板を解(こほ)ち取りて、楯を作りて、京の邊の衢(ちまた)に竪(た)てて守る。」天武元年七月壬辰(3日)条

 「甲午に、近江の別将田邊小隅、鹿深山を越えて、幟を巻き鼓を抱きて、倉歴(くらふ)に詣(いた)る。」天武元年七月甲午(5日)条

 この二例の「詣」記事は、文脈から〝貴人に詣でる〟という主旨ではないので、普通に〝ある場所(古京、倉歴)へ至る〟の意味と解釈するほかありません。同じ天武紀の中にこのような用例がありますから、それらを除外して、天武元年(672)九月条だけを根拠に、倭京に上位者がいたとする仮説を貫き通すのは無理なように思います。また、「洛中洛外日記」(注)で紹介したように、藤原宮内下層条坊を天武期より前の造営とすることも考古学的にはやや困難ではないでしょうか。
 やはり、現時点での多元史観に於ける解釈論争としては、「倭京に詣る」の「倭京」を飛鳥宮(通説)のこととするのか、難波京(西村秀己説)とするのかに収斂しそうです。もっとも、新庄説も新たな視点や論証の積み重ねにより強化されることはありえます。いずれにしても自由に仮説が発表でき、真摯な論争による学問研究の発展が大切です。
 なお、付言しますと、天武紀の「倭京」が西村説の難波京であれば、そこには九州王朝の天子がいた可能性もあり、その場合には「倭京に詣(もう)でる」という訓みはピッタリとなります。とは言え、『日本書紀』編者がそのように認識して「詣」の字を使用したのかどうかは、別途検証が必要です。

(注)古賀達也「洛中洛外日記」2724~2727話(2022/04/20~23)〝藤原宮内先行条坊の論理 (1)~(4)〟

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