第2855話 2022/10/07

邪馬臺国と邪馬壹国〝裴松之の証言〟

 古田先生の『「邪馬台国」はなかった』(注①)を読んで古田史学のファンになった人は少なくないと思います。かく言う、わたしもその一人です。『三国志』原文に邪馬臺(台)国という国名はなく、邪馬壹国であることに一驚し、「壹」は「臺」の誤りとしてきた通説への反証として、『三国志』中の全ての「壹」と「臺」の字を抜き出し、両者が誤って使用されていないことを実証する悉皆調査という学問の方法に二驚するという経験を読者は共通して抱かれたはずです。このとき、わたしは古代史研究において、いかに「学問の方法」が大切かということを始めて認識し、「学問の方法」というものを強く意識しながら、今日まで古代史研究を進めてきました。
 そこで、今回紹介するのは、「邪馬台国」論争における〝裴松之(はいしょうし)の証言〟という古田先生の論証方法です。この論証は古田ファンでもご存じない方が少なくないようですので、その背景も含めて論じたいと思います。
 古田先生の「邪馬壹国」説に対して、通説側からよく出される反論に、〝五世紀に成立した『後漢書』には「邪馬臺国」とあり、『三国志』版本のみに見える「邪馬壹国」は〝天下の孤称〟であり、『三国志』原本には「邪馬臺国」とあった〟とするものがありました(注②)。これに対する反証として提起された論証の一つが〝裴松之の証言〟です(注③)。
 『三国志』は三世紀に成立した同時代史料ですが、現存版本には五世紀の南朝劉宋の官僚、裴松之(372~451年)による大量の注が付されています。ちなみに『後漢書』は同じく南朝劉宋の范曄(はんよう、398~445年)により編纂されたものです。この裴松之の注について、古田先生は次のように解説されています。

〝朝命を受けて『三国志』に対する校異を行った裴松之が『三国志』と同時代の史書・資料二七二種を対比して、二〇二〇回にわたって、異同を精細に検証していながら、問題の「邪馬壹国」については何等の校異も注記していない事実。この史料事実に刮目すべきだ。裴松之は冒頭の「上三国志注表」に次のように書いている。
 「其れ、寿(『三国志』の著者、陳寿)の載せざる所、事の宜しく録を存すべき者は、則ち採取して以て其の闕(けつ)を捕はざるは罔(な)し」「或は事の本意を出し、疑いて判ずる能(あた)はざれば、並びに皆、内に抄す」「事の当否、寿の小失に及ばば、頗る愚意を以て論弁する所有り」〟『邪馬一国の証明』ミネルヴァ書房版、194頁。

 『後漢書』が編纂された南朝劉宋において、その官僚裴松之が『三国志』を校異したことは重要で、次のように古田先生は指摘されました。

〝つまり“『三国志』本文に問題があれば、のがさず批判を加え、異本があれば正文・異文ともに収録する”といっているのだ。しかも、これは南朝劉宋の朝廷の勅命によって行った仕事だ。当時現存の『三国志』諸本は、当然裴松之の視野内にあったはずである。しかるに、裴松之は「邪馬臺国」という異本のあったことを一切記していない。(中略)
 このような史料事実を直視する限り、従来「邪馬台国=大和」説を唱道してこられた直木孝次郎氏が「公平にみて古田説に歩(ぶ)のあることは認めなければなるまい」(「邪馬台国の習俗と宗儀」、『伝統と現代』第二十六号〈邪馬台国〉特集号)と言われるに至ったのは、不可避の成り行きである。
 後代著作をもってする「多数決の論理」で代置するのではなく、「壹」を非とし、「臺」を是とする、具体的な実証だけが必要だ。それなしにこの史料事実を恣意的に“書き変える”ことは許されない。〟同194~195頁

 この五世紀における〝裴松之の証言〟は、同一王朝内で成立した『後漢書』の「邪馬臺国」表記を根拠に「邪馬壹国」説を批判することが、学問の論理上成立しないことを明らかにしたのです。

(注)
①古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(1971年)。ミネルヴァ書房より復刻。
②藪田嘉一郎「『邪馬臺国』と『邪馬壹国』」『歴史と人物』1975年9月。
③古田武彦「九州王朝の史料批判 ―藪田嘉一郎氏に答える―」『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。後にミネルヴァ書房より復刊。初出は『歴史と人物』1975年12月。

フォローする