九州年号「大化」年間に
編纂された「大宝律令」 (1)
九州王朝律令の研究をしていて、改めて気付いたことがありました。それは、大和朝廷の最初の律令、「大宝律令」は九州王朝の時代、七世紀末に編纂されたという事実です。具体的には九州年号の大化年間(695~703年。注①)、おそらくは文武天皇即位前後の697~700年頃に撰定作業が行われたと考えられています。なお、「大宝律令」が大和朝廷にとって初めての律令であることについて、『古代は輝いていたⅢ』(注②)に古田先生による次の指摘があります。
〝その一つは、大宝元年(七〇一)に「律令を撰定す。是に於て始めて成る」(『続日本紀』文武天皇)の記事であり、その二は、「大宝元年を以て律令初めて定まる」(威奈大村骨蔵器、慶雲四年=七〇七)の金石文だ。両者そろって“七世紀以前に、近畿天皇家制定の律令なし”の事実を、率直に告白していたのである。〟(ミネルヴァ書房版、316頁)
この「大宝律令」の撰定時期について、岩波の新日本古典文学大系『続日本紀 一』(注③)では次のように説明されています。
〝井上光貞は撰定の過程を以下のように整理している(「日本律令の成立とその注釈書」『著作集』一)。大宝令の撰定事業は、文武の即位直後もしくはその少し前の立太子直後に開始され、文武四年三月以前にその編纂は終わっており、文武四年三月の(1)においてそれを朝廷官人に披露するとともに、大宝律の撰成に入り、同年六月の(2)において大宝令の編纂終了にともなう編纂者への賜禄の儀が行われた。〟(『続日本紀 一』287頁)
ここでの(1)(2)とは次の『続日本紀』の記事です。
(1)文武四年(700)三月甲子、詔諸王臣読習令文。又撰成律条。
(2)文武四年(700)六月甲午、勅浄大参刑部親王、…等、撰定律令。賜禄各有差。
「大宝令の撰定事業は、文武の即位直後もしくはその少し前の立太子直後に開始され、文武四年三月以前にその編纂は終わっており」とする井上光貞説によれば、文武立太子の持統十一年(697)二月か、即位した文武元年(697)八月の直後に大宝令の編纂が開始されており、その年は九州年号の大化三年に当たります。そして大宝律令編纂を完了したのが文武四年(700)で、これは大化六年に当たります。(つづく)
(注)
①701年の王朝交代後も九州年号「大化七年~九年(701~703年)」「大長元年~九年(704~712年)」が続いたとする次の拙稿がある。
「最後の九州年号 ―『大長』年号の史料批判」『「九州年号」の研究』、古田史学の会編、ミネルヴァ書房、2012年。初出は『古田史学会報』77号、2007年。
「続・最後の九州年号 ―消された隼人征討記事」同上。初出は『古田史学会報』78号、2007年。
「九州年号の史料批判 ―『二中歴』九州年号原型論と学問の方法―」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』『古代に真実を求めて』20集、明石書店、2017年。
「九州年号『大長』の考察」同上。初出は『古田史学会報』120号、2014年。
②古田武彦『古代は輝いていたⅢ』朝日新聞社、昭和六十年(一九八五)。ミネルヴァ書房より復刻。
③新日本古典文学大系『続日本紀 一』岩波書店、1989年。