第3067話 2023/07/13

『隋書』俀国伝に記された

         都の位置情報 (7)

 『隋書』俀国伝冒頭では、俀国の位置を百済・新羅の東南と記しているにもかかわらず、大業四年(608年)の隋使の行程記事には、「東」へ至るという方角記事はあっても、「南」に至るという記事がありません。これでは「東南」方向には行けませんので、方角が記されていない竹斯国や十餘国は「南」方向とするのが妥当な読解と考えました。その理解を後押しするのが、俀国の都「邪靡堆」のことを説明した次の記事です。

 「都於邪靡堆。則魏志所謂邪馬臺者也。」

 俀国の都とされた「邪靡堆」とは、『三国志』魏志倭人伝にある「邪馬臺」のことであるとの説明文です。実際には「邪馬壹国」と倭人伝にはあるのですが、ここでは『後漢書』の「邪馬臺国」表記(注①)が採用されています。倭人伝に記された女王卑弥呼が都した邪馬壹国の位置情報は次のように記されています。

 「南、邪馬壹国に至る。女王の都する所、水行十日陸行一月。」

 古田説(注②)によれば、博多湾岸にあった不彌国の南に女王の都、邪馬壹国があるとする記事です。不彌国は邪馬壹国の〝玄関〟に相当し、その南に七万餘戸の大国「邪馬壹国」が隣接しています。従って、『隋書』の読者が先の「邪靡堆」解説記事を読めば、この倭人伝の一節に至り、都の「邪靡堆」は南方向にあるとの読解が妥当であることを確認できるようになっているわけです。もちろん『隋書』編纂者もそのように読者が認識することを期待して、「則魏志所謂邪馬臺者也」との説明文を記したのです。
従って、隋使の行路は糸島博多湾岸付近(竹斯国)に上陸した後、東へ向かい秦王国に至り、その後は南方向に十餘国を経て、海岸に達したと理解するのが最も妥当な解釈です(注③)。その結果、阿蘇山の噴火が見える肥後に至ることが可能となります。もし南以外の方向に進めば隋使は阿蘇山の噴火を見ることなどできません。この阿蘇山の記事も、隋使の進行方向が南であることを強く支持しているのです。なお、十餘国を経て着いた海岸を、当初わたしは有明海と考えていましたが、もっと南の不知火海方面かも知れません。十餘国という国の数を考えると、筑後の海岸(有明海北部)よりも肥後の海岸(有明海南部~不知火海)がより妥当かもしれません。この点、今後の検討課題にしたいと思います。(おわり)

(注)
①『後漢書』倭伝に次の記事が見える。
「倭は韓の東南大海の中にあり、山島に依りて居をなす。(中略)その大倭王は、邪馬臺国に居る。」
②古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(1971)。ミネルヴァ書房より復刻。
③この行路理解を実際の地図に当てはめると、旧西海道と一致するようである。糸島博多湾岸に上陸し、福岡市から筑紫野市へ、そして朝倉街道を東に向かい、うきは市方面に至り、その後、久留米市から南の八女市方面へ抜け、肥後に至るというルートを想定できる。恐らく、隋使は鞠智城を経由し、阿蘇山の噴煙を眺めながら肥後国府(熊本市)に至ったのではあるまいか。そして、有明海南部から不知火海付近の海岸に達したと思われる。

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