「天皇号」地名成立過程の考察
「みょう」地名の分布調査の結果、愛媛県にある字地名「才明(さいみょう)」が各地にある「みょう」地名の一つではないかと考えたのですが、合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人)は斉明天皇の「斉明」ではないかとされています。この合田説に触発され、「天皇号」が地名とされる過程について、どのようなケースがあるのかを考えています。
考察に先立ち、近畿天皇家の宮殿や都に遺存する「権力者(に由来する)地名」を調べてみました。有名なところでは、長岡京の字「大極殿」や平城京の「大極の芝」があり、いずれも大極殿跡が出土しており、地名と遺跡が一致していることが考古学的発掘調査により確かめられました。古田先生が度々紹介されてきた事例です。
藤原宮の場合は「大宮殿」(大宮堂)という地名呼称が遺存しており、そこから宮殿跡が出土し、藤原宮の全貌が発掘調査により明らかとなりました。この他にも、「大和国高市郡鴨公村、大字高殿・字宮所・字大宮・字京殿・字南京殿・字北京殿・字大君・字宮ノ口」が記録(飯田武郷『日本書紀通釈』)に残されています。
これらは「権力者(に由来する)地名」が遺存し、考古学的にその宮殿跡が確認されたケースですが、そこの地名に「天皇号(桓武・聖武・持統・文武など)」が使用された痕跡はありません。
次に難波宮(前期・後期)があった大阪市上町台地(法円坂)ですが、ここには「権力者地名」そのものが見あたりません。聖武天皇の時代の「大極殿」も出土しているのですが、それにふさわしい「権力者地名」や「天皇号(孝徳・聖武など)」地名は遺存していません。
このように近畿天皇家の宮殿跡地に「権力者地名」が付けられ、後世まで依存するかどうかは「偶然」や「時の運」によるとしか言えないようです。「天皇号」地名は付けられた痕跡がありません。一般論かもしれませんが、最高権力者(天皇)の名前を地名に付けるというのは古代においてははばかられたのではないでしょうか。中国では時の皇帝の名前に用いられたれ漢字さえも使用がはばかられた例があるほどです。(つづく)