第3204話 2024/01/19

〝名にしほふ龍の都〟の由来

 『新修福岡市史 資料編中世1 市内所在文書』に次の細川幽斎(藤孝)の和歌が掲載されています(注①)。

「名にしほふたつの都の跡とめて
なミをわけゆくうミの中道  (細川)玄旨」

 「本短冊は『九州道の記』の記述から天正十五年五月のものと考えられる。」との説明文が付記されています。天正十五年は西暦1587年に当たり、当時、志賀島や当地を含む領域がその昔に「たつ(龍)の都」と呼ばれていたことがうかがえます。

 「名にしほふ、たつ(龍)の都」とあることから、〝あの有名な「龍の都」という名前〟の〝跡をとめて〟、〝波をわけ行く海の中道〟という意味と解せます。
細川幽斎(1534~1610年)は戦国武将であり、当時一流の歌人としても知られています。その幽斎が志賀島を訪れたときにこの和歌を詠んだとされていることから、当地が「龍の都」と呼ばれていたことを前提としてこの和歌が詠まれたと考えざるを得ません。しかし、この和歌以外に志賀島が「龍の都」と呼ばれていた史料が見つかりません。例えば『万葉集』には志賀島を歌ったものがありますが、その地を「龍の都」とするものは見えません。

 この和歌の〝名にしほふ龍の都〟の一節から、『古今和歌集』や『伊勢物語』の次の和歌を思い出しました。

「名にし負はば いざ事問はむ都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」
(『伊勢物語』九段、『古今和歌集』にも収録)

 この歌は在原業平の作と伝えられており、「都鳥」の名を持つ鳥が詠み込まれています。通説ではこの都鳥をユリカモメとしますが、当時、平安京(京都)にユリカモメはいなかったと考えられています。そこで、冬になると博多湾岸に飛来する千鳥科の都鳥のこととする説をわたしは発表しました(注②)。細川幽斎の「龍の都」、在原業平の「都鳥」、そして「漢委奴国王」金印、これら全てが博多湾の志賀島という接点を有しており、それは偶然の一致ではなく、九州王朝の都が当地にあった痕跡と思われます。(つづく)

(注)
①『新修福岡市史 資料編中世1 市内所在文書』「東区志賀海神社文書 九―二(掛軸一―二)細川幽斎(藤孝)和歌短冊」、191頁。福岡市史編集委員会、平成二二年。
②古賀達也「洛中洛外日記」1550話(2017/12/08~)〝九州王朝の都鳥〟
同「洛中洛外日記」2231~2258話(2020/09/15~10/11)〝古典の中の「都鳥」(1)~(5)
同「古典の中の「都鳥」考」『九州倭国通信』202号、2021年。

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