第3240話 2024/03/02

公開シンポ「高地性集落」論のいま

 昨日、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)からのメールで、同志社大学今出川キャンパスにおいて〝「高地性集落」論のいま〟というテーマで公開シンポジウムが開催されることを知り、急遽、先約をキャンセルして、本日の公開シンポに参加しました。正木さん竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)、大原重雄さん(『古代に真実を求めて』編集部)をはじめ何名かの会員の皆さんのお顔も見えました。

 同シンポは高名な考古学者、森岡秀人先生が研究代表をされた〝2020年~2023年度科学研究費助成事業「弥生時代高地性集落の列島的再検証」〟の成果公開・普及シンポジウムで、副題は「半世紀ぶりの研究プロジェクトの成果と課題」というもの。昨年、「古田史学の会」講演会で講演していただいた若林邦彦さん(注①)が、開催校の教授として中心的に関わっておられていましたので、お礼を兼ねてご挨拶しました。

 発表者は17名(一人20分)に及び、高地性集落の研究動向に大きな変化が起きていることがわかりました(注②)。わたしとしては、個々の論点とは別に、研究動向変化の背景や事情に関心を覚えました。その解説は別途行いたいと思います。

 会場で出版物の販売も行われており、『古代武器研究』Vol.3(2002年)を購入しました。同書は2002年1月、滋賀県立大学で開催された第三回古代武器研究会の記録集です(注③)。その討論会の発言者に古田先生の名前があり、購入したものです。古田先生の発言部分を引用します。

 「古田武彦でございます。先ほど、韓国の5世紀末ですか、そのころに非常に深く鋭い軍事施設が作られているという報告がございました。非常に感銘いたしました。それは、結局、倭の五王であり、朝鮮半島で激戦が繰り返されていた時期だと思いますので、当然のことだろうと思います。
ところが、その当然のことが、日本列島に来ると、何も全然軍事的な防御もせずに平和そのものであるというのは、ちょっとおかしいと思うんです。というのは、韓半島で闘っているのは、百済だけではなく、倭の軍隊が、ある意味では百済以上の軍事力を発揮していたと思いますので、その倭国へ高句麗や新羅側からの反撃がないと、たかをくくっていたとはちょっと考えにくいわけです。

 そうしますと、今日あそこにポスターセッションさせていただきましたが、神籠石と呼ばれる明らかな軍事施設、しかも防御施設、それが延々と築かれているわけです。これは太宰府、筑後川流域を囲んで作られているわけです。展示しましたのは、皆さんよくご存じの高良山とか、そういう中心部分のものはよく写真、本に出ていますので、むしろあまり出ていない御所ヶ谷とか、おつぼ山の写真だけを載せたのですが、非常に鋭く深い軍事要塞の痕跡が残っているわけです。

 あれは、天皇陵を作るのと、どちらが巨大な労力がいったか、簡単には言えないのですが、私はむしろあちらの神籠石のほうが、よりしんどかったのではないか。というのは、天皇陵は平地へ作る場合が多いですが、あそこは山の中腹から上方に、巨大な石を延々と人間が当然運び上げて、はりめぐらせているわけですから、経済的にも政治的にも、軍事的にも、大変な犠牲をはらって造られたことは、まず疑うことはできないわけです。
ところが、それが大和を囲んでいればいいのですが、いまの太宰府、筑後川流域を囲んでいるために、これに対する軍事的な評価をせずに、いままできているのではないか。

 早い話が、中学にも高等学校の教科書にも、全く神籠石の図は出ておりません。出ると、子どもに質問されたら、先生は答えにくいと思うんですね。何で、倭の五王は大和朝廷なのに、大和を囲まずに太宰府、筑後川流域だけを囲んだ軍事施設を作ったんですかと言われたらごまかさずに答えるというのはたいへん難しいと思うんです。

 要するに、いま話題になっている、古墳時代の日本における防御的軍事施設というテーマの際に、神籠石の問題にノータッチで論じたのでは、本当の議論は、失礼ですができないのではないか。
かつては白村江以後に作られたという説もありましたが、いまはさすがにそういう人はいないようで、武雄市教育委員会で出された報告書でも、6世紀ないし7世紀に作られた、つまり白村江以前に作られたというふうに、何人かの方々の意見を集約して書かれています。
そういうことで、長々申すつもりはございませんが、いわゆる神籠石問題を視野に入れて、いま出ております軍事的防御施設の問題を論じていただければありがたい。お願いでございます。」

 実はこのときの古代武器研究会に、先生のポスターセッションのお手伝いとして、わたしも参加していましたので、『古代武器研究』を読んでいて、当時のことを懐かしく思い出しました。そのときの緊迫した状況など、別の機会に紹介したいと思います。
なお、本日のシンポジウムの参加者は二百名を越え、一般市民の参加が三割ほどもあり、代表として閉会の挨拶をされた森岡先生から、「市民の協力があって、わたしたち考古学者は研究ができます。研究者だけてはできません。」とお礼の言葉があり、会場からは大きな拍手が起こりました。朝の九時半から夕方五時半過ぎまで、聞いている方にとってもハードな研究発表が続きましたが、考古学における学問の方法や、「高地性集落」研究が抱えている難しさもわかり、とても勉強になりました。

(注)
①『九州王朝の興亡』(『古代に真実を求めて』26号、明石書店)出版記念講演会。2023年6月17日、会場:エルおおさか。
講師/演題。
若林邦彦さん(同志社大学歴史資料館・教授)/「大阪平野の初期農耕 ―国家形成期遺跡群の動態」
正木 裕さん(古田史学の会・事務局長)/「万葉歌に見る九州王朝の興亡」
②従来は、高地性集落を防御など軍事的な視点で論じられてきたが、近年では海上活動や流通経済、船舶航行のためのランドマークなど多角的な視点での研究が重視されている。
③伊東義彰「第三回古代武器研究会を傍聴して」『古田史学会報』48号、2002年。(報告は下にあります。)

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