第3340話 2024/09/03

同時代エビデンスとしての

      「天皇」木簡 (4)

 飛鳥池遺跡からは北地区大溝遺構SD1130(排水施設)の「天皇」木簡以外にも大量の木簡が出土しており、奈良文化財研究所HPの「木簡庫」に登録されています。それら遺構毎の出土木簡の史料批判により年代観を判定し、『日本書紀』の記事との対比ができ、その記事がどの程度信頼してもよいのか、史料批判が飛躍的に進み、当時の近畿天皇家の実体に迫ることができるようになりました。『日本書紀』の解釈論争にとどまることなく、その記事に対応した同時代木簡を研究対象にすることで、より正確に古代の真実に肉薄することができます。

 今回は、飛鳥池遺跡南地区「SX1222粗炭層」出土の次の木簡を紹介します。なお、「木簡庫」には同層出土木簡のうち、64件が登録されています。

《飛鳥池遺跡南地区 SX1222粗炭層》
【木簡番号】63
【本文】二月廿九日詔小刀二口○針二口○【「○半\□斤」】
【木簡説明】上下二片接続。四周削り。下端は焼痕があるが、特に欠損していない。天武天皇もしくは持統天皇の詔を受けて小刀・針の製作を命じた文書、あるいはその命令を書き留めた記録であろう。ただし「詔」は「勅旨」と同様、供御物であることを示す語の可能性もある。下端に別筆で天地逆方向に記された「□斤半」は、小刀二口・針二口を作製するのに必要な鉄の重量を追記したものであろう。焼痕と重なる□には横棒が一本みえ、「一」「二」「三」のいずれかであろう。「半」字は「□」字を避けるようにして、横にずらしだ文字を記す。

【木簡番号】64
【本文】大伯皇子宮物○大伴□…□品并五十□
【木簡説明】上下三片からなるが、第二片と第三片は中間欠により直接接続しない。短冊形に復元でき、上下両端・右辺削り。左辺は第二片以外削り。「大伯皇子」は大伯(大来)皇女。天武天皇の娘で、大津皇子の同母姉。「皇子」表記は、天皇の子女が男女を問わず「ミコ」と呼ばれたことによる。「品」の上は残画から数字の「一」「二」「三」のいずれかであろう。最下字は「一」と「四」を重ね書きしたような字形で、「一」を「四」に訂正した可能性がある。大伯皇女は天武三年(六七四)から朱烏元年(六八六)まで伊勢国に斎王として赴いており、本木簡の時期は大伯皇女が帰京した持続朝の可能性がある。

【木簡番号】92
【本文】・舎人皇子□・○百七十
【木簡説明】円形の傘をもつ釘の様。軸は笠に差し込んである。笠は直径36㎜高さ7㎜。軸は9㎜四方の方形で、長さ138㎜。下端はやや折れ。他は削り。軸中程やや上寄りに墨書する。「舎人皇子」は天武天皇の皇子。藤原宮跡から「舎人親王宮帳内」(『藤原宮木簡二』六一一号)、平城宮跡から「一品舎人親」(『平城宮木簡六』一〇六九一号。『同六』八八三二号も舎人親王を指す可能性がある)と記す木簡や削屑が出土している。「百七十」は、舎人皇子宮が発注した釘の本数。

【木簡番号】105
【本文】三分□□□〔五十戸ヵ〕〈〉
【国郡郷里】(若狭国大飯郡佐文郷〈若狭国遠敷郡三分五十戸〉)
【木簡説明】上端・左右両辺削り、下端折れ。上端は緩やかな圭頭形。上部左右に三角形の切り込みをもつ。「三分五十戸」は『和名抄』若狭国遠敷郡佐分郷に該当する可能性がある。藤原宮跡出土木簡に「己亥年若佐国小丹生/三分里三家首田末呂」と記すものがある(『評制下荷札木簡集成』一二二号)。

【木簡番号】106
【本文】・加毛評柞原里人・「児嶋部□俵」
【国郡郷里】播磨国賀茂郡楢原里〈播磨国加毛評柞原里〉
【木簡説明】四周削り。上端はやや左上がり。下端は緩やかな圭頭形で、端部は左に大きく偏る。上部左右に切り込みをもち、左側は台形、右側は三角形。切り込みの高さは左右でかなり異なり、位置も他に比べて低い。表裏は別筆関係にあるが、内容的には一連である。「加毛評柞原(ならはら)里」は『播磨国風土記』賀毛郡条に楢原里、平城宮跡出土の荷札木簡に加毛郡柞原郷がみえる(「平城宮木簡二』二二六五号)。「児嶋了」は備前国児島郡に関わる部民と推測される。児島は海上交通の要衝であり、六世紀には児島ミヤケが置かれていた(『日本書紀』欽明十七年七月己卯条など)。柞原里は播磨国でも内陸部に位置するが、加古川水系・瀬戸内海によって児島郡と結びついたのであろう。

【木簡番号】107
【本文】・吉備道中国加夜評・葦守里俵六□
【木簡説明】三片接続。四周削り。上部左右・下部右側に切り込みをもつ。「吉備道中国加夜評葦守里」は『和名抄』備中国賀夜郡足守郷に該当する。「吉備道中」は『和名抄』国郡部の「吉備乃美知之奈加(きびのみちのなか)」という読みと対応する。「吉備」の分割は天武十二年(六八三)から十四年にかけての国境確定事業によってなされた可能性が高く、「里」表記の年代観とも矛盾しない。

【木簡番号】108
【本文】湯評井刀大部首俵
【国郡郷里】(伊与国温泉郡井門郷/伊予国温泉郡井門郷〈湯評井刀〉)・(伊与国浮穴郡井門郷/伊予国浮穴郡井門郷〈湯評井刀〉)
【木簡説明】右下隅部で二片接続。四周削り。上端には整形前の切断痕跡がある。上部左右に浅い三角形の切り込みをもつ。切り込みより下の横幅は上よりも狭いが、特に欠損部は認められない。「湯評井刀」は『和名抄』伊予国温泉郡に該当する郷名はみえず、浮穴郡に井門郷がみえる。しかし、平城宮跡出土の荷札木簡に湯泉郡井門郷がみえる(『平城宮木簡三』二九一一号)ので、湯評は後の浮穴郡を含んでいた可能性がある。

【木簡番号】109
【本文】・湯評大井五十戸・凡人部己夫
【国郡郷里】(伊与国温泉郡/伊予国温泉郡〈湯評大井五十戸〉)
【木簡説明】上下二片接続。四周削り。上端はやや丸みを帯び、裏側を面取りする。「湯評大井五十戸」は『和名抄』伊予国温泉郡に該当する郷名はみえない。濃満郡に大井郷がみえるが、温泉郡との間には風早郡が存在するため、飛び地を想定しないかぎり、成立しがたい。これに対して、井門郷の東隣にあたる旧浮穴郡高井・南高井村に遺称地を求める見解がある(日野尚志「考徳天皇の時代に久米評は存在していたか」『松山市考古館開館五周年記念シンポジウム(古代の役所)一九九四年)。

【木簡番号】110
【本文】・湯評笶原五十戸・足支首知与尓俵
【国郡郷里】伊与国温泉郡/伊予国温泉郡〈湯評笶原五十戸〉
【木簡説明】上端切断、左右両辺削り、下端やや折れ。「湯評笶原(のはら)五十戸」は西隆寺跡出土の荷札木簡に伊与国温泉郡箆原(のはら)郷がみえる(西隆寺跡調査委員会・奈良国立文化財研究所編『西隆寺発掘調査報告』一九七六年、三〇号)。「笶」は「箆」の別字で、「笑」ではない。

【木簡番号】111
【本文】・○加佐評春□・【□□□「里人」】
【国郡郷里】(丹後国加佐郡〈加佐評春→〉)・(備中国〈加佐評春→〉)
【木簡説明】左右両辺削り、上下両端折れ。上部左右に切り込み。「加佐評」の比定地については、議論の多い法隆寺旧蔵弥勒菩薩像銘の「笠評」と同様、丹後国加佐郡もしくは吉備(備中)の笠国造に関わる領域の可能性がある。丹後国加佐郡とすると、正平七年(一三五二)二月十三日後村上天皇綸旨・同三月九日新待賢門院令旨にみえる丹後国志楽庄内春日部村との関連があるかもしれない(永島福太郎編『大和古文書聚英』奈良県図書館協会、一九四三年、一一六・一一七号)。

【木簡番号】115
【本文】←五十戸/阿止伯部大尓/鵜人部犬〓∥
【木簡説明】斎串に転用した荷札木簡。文字方向は斎串と天地逆。四周二次的削り。「阿止伯了」は未見の部姓。「鵜人了」は鵜養部のことか。

【木簡番号】118
【本文】・〈〉五十戸人・□〔移ヵ〕部連依□〔国ヵ〕\□□□□□
【木簡説明】四周削り。下端は稜のない剣先形で、先端部を丸く削る。上部左右に切り込みをもつ。墨色は極めて薄い。表裏ともに材の上半部に墨書する。「移了連」は山部連。「移」は上古音で「ヤ」。

 まず、同層出土木簡の年代観ですが、行政単位として「評(こおり)」「五十戸(さと)」「里(さと)」が見え、「郡」は見えませんから、七世紀第4四半期の天武・持統期と見てよいと思われます。「大伯皇子宮」「舎人皇子」のという天武の子供やその住居(宮)名が見えることからも、この年代観を支持しています。従って、当時の飛鳥には天武と比定されている「天皇」とその「皇子」らが住んでいたことがわかります。

 荷札木簡の地名(若狭国・播磨国・吉備道中国・伊予国)は、当時の近畿天皇家の統治領域の一端を示し、事実上の第一実力者であったと推定出来ます。また、「二月廿九日詔」木簡(木簡番号63)は、飛鳥の地で詔勅を発していたことを示しており、王朝交代前の九州王朝の時代でありながら、天武らは「天皇」に相応しい振る舞いをしていたこともわかります。(つづく)

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