第3347話 2024/09/16

王朝交代期のエビデンス、

        藤原宮木簡 (4)

 701年での九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代期を跨ぐ時代の遺構、藤原宮跡北面中門地区の外濠SD145から出土した木簡から、701年に起きた行政官庁・官司の名称変化と行政用語を示すものを紹介します。これらも藤原宮の時代(694~710年)に王朝交代がなされた根拠となる木簡群です。

《藤原宮跡北面中門地区 遺構SD145 出土木簡》

【木簡番号】0
【本文】←○左大臣□□□

【木簡番号】0
【本文】□〔主〕典大初□〔位〕

【木簡番号】0
【本文】・←□御命受止食国々内憂白・←□止詔大□□〔御命ヵ〕乎諸聞食止詔

【木簡番号】0
【本文】・恐々謹々頓首→・受賜味物→

【木簡番号】8
【本文】・卿等前恐々謹解寵命□・卿尓受給請欲止申
【木簡説明】卿等への上申文書。助調の一部を万葉仮名で、補なう形をとった解。仮名を小字に書かない例は宣命木簡(奈教委『概報』)にもみられる。卿は養老令では八省の長官をいう。ここでは単なる尊称か。(後略)

【木簡番号】11
【本文】・恐々受賜申大夫前筆・暦作一日二赤万呂□
【木簡説明】筆の請求に関する文書。「暦作」云々の文言からすると暦の勘造、頒布に要する筆か。大宝令制では中務省の陰陽寮が造磨、頒暦に当っている(『令集解』職員令陰陽寮条古記)。(後略)

【木簡番号】13
【本文】・内掃部司解□→・倭国○葛下郡→
【国郡郷里】大和国葛下郡
【木簡説明】内掃部司は宮内省の被管で供御の畳、席、薦等の事を分掌する官司。伴部として掃部をもつ。令制では掃部は大蔵省掃部司と宮内省内掃部司にある。掃部の伴造の系譜をひく掃部連の出身者が内掃部司の令史に任じられている例が、天平一七年四月付の正倉院文書にある(『大日古』二-四〇八頁)。この木簡の文意は不明であるが、葛下郡との関係は、同郡内に掃部氏の氏寺で義淵の建立と伝える掃守寺跡があることが注意される。

【木簡番号】17
【本文】中務省/管内蔵三人∥
【木簡説明】「管」は官司を管理するの意で、養老職員令にも「中務省/管職一寮六司三∥」などとある(『令集解』)。ただこの場合の「内蔵三人」は内蔵寮の官人のことか。大宝・養老令制では内蔵寮は中務省に所属している。

【木簡番号】18
【本文】中務省使部
【木簡説明】養老令制では中務省には使部七〇人が配属されている(『令集解』)。(後略)

【木簡番号】30
【本文】・大初位下上県白→・○□
【木簡説明】上縣という氏は他の文献史料にない。あるいは上が民(ママ、氏ヵ)で縣は名か。(後略)

【木簡番号】72
【本文】・□〔而ヵ〕薬司□〔侍ヵ〕/□□□□/○□∥・□□部□/○/□∥
【木簡説明】薬に関する官司は大宝令制では後宮十二司の薬司、典薬寮、内薬司などがある。この木簡の示す薬司は後宮十二司のそれをそのまま示すものか、あるいは典薬寮の大宝以前の前身である外薬寮(『日本書紀』天武四年正月朔条)や内薬司の前身である内薬官(『続日本紀』文武三年正月癸未条)の別称であるのかはつまびらかにしない。

遺構SD145から出土した上記木簡で注目されるのが、木簡17・18にある「中務省」(注①)という大宝令で創設された官庁名です。木簡13の「内掃部司」も中務省管轄の官司であり、木簡11の「暦作」を担当した部署も「大宝令制では中務省の陰陽寮が造磨(ママ、暦)、頒暦に当っている(注②)」とあることから、SD145の近辺に中務省があったのではないでしょうか。藤原宮(京)が律令制の王都王宮として機能していたことは、木簡0・30に見える律令制官位「大初□」「大初位下」からもうかがえます。(つづく)

(注)
①中務省(なかつかさしょう)は、律令制における八省のひとつで、天皇の補佐や詔勅の宣下、叙位など朝廷に関する職務全般を担ったことから、八省の中でも最重要の省とされた。
②『養老律令』巻十 雑令に次の条文がある。
「凡よそ陰陽寮は、年毎に預(あらかじ)め来年の暦造れ。十一月一日に、中務に申し送れ。中務奏聞せよ。内外の諸司に、各(おのおの)一本給へ。並に年の前に所在に至らしめよ。」(日本思想大系『律令』岩波書店)による。

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