第3350話 2024/09/23

『続日本紀』道君首名卒伝の

       「和銅末」の考察 (1)

 古田先生が晩年に提唱された、七世紀の金石文に見える「天皇」は九州王朝天子の別称とする新説(古田新説)に対して、わたしは旧説(天子の配下のナンバーツーとしての「天皇」)の方が妥当として、古田先生とも〝論争的対話〟を続けていました(注)。

 その論点の一つとして、国宝の船王後墓誌(668年成立)にある「阿須迦天皇之末歳次辛丑年(641年)」がありました。阿須迦天皇を九州王朝の天子とする先生に対して、その年(歳次辛丑年)に没した舒明天皇とする通説は『日本書紀』と一致しており妥当だが、阿須迦天皇之末の歳次辛丑年(641年)あるいはその翌年に九州年号「命長」は改元されていないので(改元は6年後、647年の常色元年丁未)、九州王朝の天子ではないとしました(このことを最初に指摘したのは正木裕さん)。

 このようなわたしの見解に対して、服部静尚さん(古田史学の会・会員、八尾市)から次の批判がなされました。多元的古代研究会のリモート研究発表(「天皇称号について」2024年9月20日)での服部さんの資料から転載します。

【以下、転載】
④古田氏の『「阿須迦天皇の末」という表記から見ると、当天皇の治世年代は永かったと見られるが』部分の古賀氏の批判はその通りです。しかし、永くなければ「末」と言う表現は使わないのか。以下に『日本書紀』および『続日本紀』での時を表わす「末」の使用例(実は非常に少なくたった2例)を示す。

(1) 天智紀7年(668)10月、「大唐の大将軍英公が高麗を討ち滅ぼす。高麗の仲牟王が初めて建国した時に(中略)母に七百年の治あらんと言われた。今此国が亡ぶのはまさに七百年之末也。」
⇒『三国史記』・『三国遺事』ともに東明王の建国を漢の孝元帝健昭2年(紀元前37)とするので、実際には建国後705年に滅んだことになります。これを700年の末と記述しているのです。700年と少しの後と言う意で末を使っています。

(2) 養老2年(718)4月条、「筑後守正五位下道君首名(みちのきみおびとな)卒する。首名はおさなく律令を治め、吏職に明らかなり。和銅の末に出でて筑後守となり~」
⇒首名の筑後の守の任官は和銅6年(713)8月に対し、和銅年号は8年9月までです。8年足らずの間の内2年の期間でも末を使用しているのです。
つまり「末」と言う語は、末年1年限りについてのみ使用する語とは限りません。少なくとも古賀氏の言う「5年間も末年が続いたことになり、これこそ不自然」との批判は当らないのです。
【転載終わり】

 この批判、特に(2)の「道君首名卒伝」の「和銅の末」はとても興味深い指摘です。服部さんからの反論要請もあり、今回はこの「道君首名卒伝」について検討しました。(つづく)

(注)
古賀達也「洛中洛外日記」一七三七~一七四六話(2018/08/31~09/05)〝「船王後墓誌」の宮殿名(1)~(6)〟
「船王後墓誌」の宮殿名 ―大和の阿須迦か筑紫の飛鳥か―」『古田史学会報』一五二号、二〇一九年。
同「宮名を以て天皇号を称した王権」『多元』一七三号、二〇二二年。
同「『天皇』銘金石文の史料批判 ―船王後墓誌の証言―」『古田史学会報』一八二号、二〇二四年。

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