第3362話 2024/10/05

『続日本紀』道君首名卒伝の

        「和銅末」の考察 (7)

藤原魚名薨伝「天平末」と淡海三船卒伝「宝亀末」

 『続日本紀』藤原朝臣真楯薨伝に続いて、延暦二年(783)七月条の藤原朝臣魚名薨伝に見える「天平末」、延暦四年(785)七月条の淡海眞人三船卒伝の「宝亀末」の「末」について検討します。

 まず、藤原魚名薨伝の当該記事と訓読文は次の通りです(注)。

 「天平末、授從五位下補侍從。」 天平の末(すえ)に、從五位下を授(さず)けられ、侍從に補(ふ)せられる。

 天平は二十年まで続き、末年は天平二十年(748)ですので、『続日本紀』の同年条を見ると、二月条に次の記事がありました。

 「正六位上百済王元忠・藤原朝臣魚名(中略)並従五位下。」 正六位上百済王元忠・藤原朝臣魚名(中略)に並(ならび)に従五位下。

 この天平二十年の藤原朝臣魚名昇進記事により、薨伝の「天平末」とは字義通り、天平年間(729~748年)の末年である天平二十年(748)を意味する事がわかります。

 次に、延暦四年(785)七月条の淡海三船卒伝の当該記事は下記の通りです。ちなみに、淡海三船は『日本書紀』の漢風諡号を作成した人物として著名です。

 「宝亀末、授從四位下、拜刑部卿兼因幡守。」 宝亀の末、從四位下を授けけられ、刑部卿兼因幡守を拜す。

 宝亀は十一年まで続き、末年は宝亀十一年(780)です。『続日本紀』の同年条を見ると、二月条に次の記事がありました。

 「授正五位上淡海眞人三船従四位下」 正五位上淡海眞人三船に従四位下を授く。

 ここでも「宝亀末」を字義通りの宝亀年間(770~780年)の末年、宝亀十一年(780年)の意味で使用されている事がわかります。

 しかしながら、その後に続く刑部卿への任官記事は延暦三年(784年)四月条に見え、因幡守を兼任したのは延暦元年(782年)八月条にありますので、「宝亀末」は従四位下にのみ対応しており、「刑部卿兼因幡守」拝命記事にはかかっていないことになります。あるいは、「刑部卿兼因幡守」の任官を宝亀十一年とする別資料があり、薨伝はそちらを採用したという可能性もあるかもしれません。または、従四位下の時代に任官した役職を「授從四位下」に続けて記したのでしょうか。こうした表記例もありますので、『続日本紀』の卒伝や薨伝の構文理解には注意が必要です。(つづく)

(注)原文と訳文は新日本古典文学大系『続日本紀』(岩波書店)による。

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