日野智貴さんの歴史教科書改訂案
1980年頃のこと。歴史教科書に古田説が掲載されたことがあったことを「洛中洛外日記」3404話(2024/12/31)〝教科書に「邪馬壹国」説が載った時代〟で紹介しました。その後、冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)の調査により、昭和49年(1974)に三省堂から出版された家永三郎先生の教科書『新日本史』には、本文の「卑弥呼」で次のように書かれていたことがわかりました。
「卑弥呼は、「魏志」の本文によれば、「邪馬壹国」の女王であったとしるされている。従来はこれを『後漢書』により「邪馬臺国」(臺は台)の誤りと考え、国名をヤマトと読み、そのヤマトが九州のヤマトであるか、今の奈良県のヤマトであるかについて、長年月にわたり、学界で論争がつづけられてきた。最近「壹」は誤字ではないという説があらわれ、卑弥呼の支配する国の名と所在地をめぐり、新しい論議を生んでいる。」16ページ
このように『三国志』倭人伝原文には邪馬壹国とあることが記され、〝「壹」は誤字ではない〟とした古田説が紹介されています。しかし、現在の教科書本文からは邪馬壹国は消えています。そこで、教科書に詳しい日野智貴さん(古田史学の会・編集部員)に教科書改訂案を作って欲しいとお願いしたところ、次の案が示されました。教科書を書き換えるための効果的な視点を持つ改訂案ではないでしょうか。要点のみ紹介します。
山川出版社『詳説日本史 日本史探究』
「邪馬台国連合」改訂案
日野智貴
p.18 11行目より
《現状》
そこで諸国は共同して邪馬台国〈やまたいこく〉の卑弥呼〈ひみこ〉を女王として立てたところ、ようやく争乱はおさまり、ここに邪馬台国を中心とする29国ばかりの小国の連合が生まれた。
《修正案》
そこで諸国は共同して邪馬台国〈やまたいこく〉(邪馬壱国〈やまいち(ゐ)こく〉)の卑弥呼〈ひみこ(ひみか)〉を女王として立てたところ、ようやく争乱はおさまり、ここに邪馬台国を中心とする30国ばかりの小国の連合が生まれた。
《訂正の趣旨》
学習指導要領には「原始・古代の特色を示す適切な歴史資料を基に,資料から歴史に関わる情報を収集し,読み取る技能を身に付けること」とある。
現行教科書も資料引用部分には「読みといてみよう」の言葉とともに『魏志』「倭人伝」の引用が記され、そこには「今使訳通ずる所三十国」「邪馬壹国に至る」等の記述がある。また「邪馬壹国」の注釈には「壹(壱)は臺(台)の誤りか」とあり、誤りであると断定はしていない。
にも拘らず、本文では「邪馬台国」とのみ掲載し、さらに「三十国」も「29国」としているのは、単に古田学派の立場からオカシイだけでなく、歴史資料を読み取る能力を育成するうえでも問題である。資料の注釈が両論併記ならば、本文も両論併記にすることは当然である。それが資料を読み取る能力の育成につながる。
p.19 6行目より
《現状》
一方、九州説をとれば、邪馬台国連合は北部九州を中心とする比較的小範囲のもので、ヤマト政権はそれとは別に東方で形成され、九州の邪馬台国を統合したか、あるいは邪馬台国の勢力が東遷してヤマト政権を形成したということになる。
《修正案》
一方、九州説をとれば、邪馬台国(九州説では邪馬壱国が正しいとする見解もある)連合は北部九州を中心とするものであるが、北部九州のみの比較的小範囲のものか、本州西部まで含む規模のものかは議論がある。ヤマト政権はそれとは別に東方で形成され、九州の邪馬台国を統合したか、あるいは邪馬台国(邪馬壱国)の勢力かその分派が東遷してヤマト政権を形成したということになる。
《訂正の趣旨》
邪馬台国大和説とは異なり、九州説は多種多様な意見が存在するのであり、大和説同様一枚岩の仮説のように扱うのは不適であるし、また「多面的」な考察を妨げるものである。
もちろん、様々な仮説を同様に紹介するのは困難であるが、例えば邪馬台国そのものではなくその分流が東遷したというのは、古田先生を批判していた安本美典氏も主張している説であり、立場の異なる複数の論者が主張している見解は教科書に掲載するべきである。