日野智貴さんの
藤原京「九州王朝首都」説の論理
1月18日、古田史学の会・関西例会の終了後に、日野智貴さん(古田史学の会・編集部)より藤原京の性格について、九州王朝(倭国)の首都と考えるべきとの意見が出されました。その日の例会でわたしが、藤原京を近畿天皇家の天武や持統が王朝交代のために造営したとする見解を発表したことにより、日野さんからこうした批判的意見が出されたものです。日野さんの主張は次のような論理に基づいています。
(1) 九州王朝から大和朝廷へ王朝交代するにあたり、それが禅譲であり、その儀式が藤原京で行われたのであれば、その場に九州王朝の天子がいたはずである。
(2) そのために九州王朝の天子が一時的にでも藤原京にいたのであれば、その期間はそこが九州王朝の王都となる。
(3) 従って一時的であっても、藤原京は九州王朝の都であったと定義すべきである。
以上のような指摘がなされました。日野さんらしい鋭い視点です。これには、王朝交代が禅譲だったのかという根源的なテーマの検討が必要です。良い機会でもありますので深く考えてみたいと思います。今までの研究では禅譲説を支持するエビデンスとその解釈として、次のことがあげられます。
❶評から郡への変更が701年に全国一斉に行われたことが藤原宮出土荷札木簡などから判断できる。これは王朝交代が事前に周到な準備により、平和裏に行われたことを示唆する。
❷福岡市西区の元岡桑原遺跡から「大宝元年(701年)」木簡が出土しており、九州王朝の中枢領域である筑前の地で、王朝交代の年に大和朝廷の「大宝」年号が使用されていることから、当地は平和裏に大和朝廷の統治下に入ったことを示唆する(注①)。
❸太宰府からは「和銅八年(715年)」のヘラ書きを持つ甕片が複数出土していることもこのことを裏付けている(注②)。
他方、南九州での隼人の抵抗記事やその痕跡が『続日本紀』に記されており、仮に王朝交代が禅譲であっても、最後の九州年号「大長」の末年(大長九年・712年)まで徹底抗戦した勢力もありました(注③)。
なお、藤原宮に九州王朝の天子がいたとする仮説は、西村秀己さん(古田史学の会・会計、編集部)が20年前に提起されたものです。日野さんの今回の主張も、西村さんの提起を受けて考察した結果とのことでした。
(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3053話(2023/06/26)〝元岡遺跡出土木簡に遺る王朝交代の痕跡(3)〟
②同「洛中洛外日記」3384話(2024/11/28)〝王朝交代直後(八世紀第1四半期)の筑紫 (3)〟
③同「続・最後の九州年号 ―消された隼人征討記事」『「九州年号」の研究』古田史学の会編・ミネルヴァ書房、2012年。初出は『古田史学会報』78号、2007年。