第3437話 2025/02/25

『三国志』短里説の衝撃 (8)

 ―一元史観が生んだ虚構「畿内説」―

 「邪馬台国」畿内説は、長里説(435m)では説明できない倭人伝の行程・里程記事を合理的に説明できる短里説(76~77m)の存在には触れず、〝倭人伝の行程や長里による里程記事は信用できない〟と、手を変え品を変えて言い続け、しかし結論だけは〝「邪馬台国」は畿内で決まり〟とします。この畿内説は、客観的で合理的な証明を経ていない近畿天皇家一元史観という「史観」が生んだ虚構です。そのことが仁藤敦史さんの論稿中(注①)にも現れています。たとえば次の記事です。

〝さらに、『三国志』以降の中国正史も、卑弥呼王権と「倭の五王」以降のヤマト王権を基本的に連続するものとして記述している点も傍証となる。すなわち、『梁書』倭伝は、「復た卑弥呼の宗女台与を立てて王と為す。其の後復た男王を立て、並びに中国の爵命を受く。晋安帝の時、倭王賛有り」と記して、台与と倭の五王を連続的に記す。また『隋書』倭国伝には「邪馬堆に都す。則ち魏志の所謂邪馬台なる者なり」として邪馬台国はヤマト王権がある大和に所在したとする。このように中国史書は邪馬台国が大和に所在したと解している。〟『卑弥呼と台与』19頁

 この文章から、仁藤さんは何の疑いも持たず、確たる証明もなく、古代中国史書(『三国志』『梁書』『隋書』など)に記された「倭」「倭国」をヤマト王権(後の大和朝廷)のこととし、それを「邪馬台国」畿内説の傍証とされていることがわかります。

 しかも仁藤さんにとって好都合なことに、この「史観」が日本古代史学界の〝不動の通念(岩盤規制)〟であるため、自説が一元史観(注②)という「史観」を前提としていることや、「史観」成立のための客観的で合理的・論理的な説明なしで著述・発言できるという、圧倒的有利な立ち位置にあることに支えられています。この学界の状況を中小路俊逸氏(1932-2006。追手門大学文学部教授)は次のように厳しく指弾してきました。

〝肝心カナメのカンどころ、「一元通念」を「論証を経ざるもの」とした古田氏の指摘、日本古代史の研究史のなかで古田氏の学の位置を決定した理論上の「定礎」を「是」なりと明言するかしないかという、大事の一点が棚上げされ、覆われ、隠され、忘れられてしまい、結果は「学理上無効な一元通念が無期限に安泰」となること、明白だからである。「一元通念」を「非」とするか。この件を伏せて言わないか。この規準が明晰かつ有効であることを私は確信していた。〟(注③)

〝古田武彦の名前を伏せて古田説とそっくりで、それでいてどこか違う説を言い出す学者が出てきた。目的はただ一つ、大和朝廷よりも格が上だった九州王朝の存在という肝要の一点を伏せること。そして有史以来初めてその事を指摘した古田武彦の名前を研究史から抹殺することです。この動きがいよいよ始まりました。この策動を許してはなりません。〟(注④)

 「邪馬台国」畿内説は、畿内説論者自身も認めているように、『三国志』倭人伝という唯一の同時代エビデンスからは全く導き出すことができません。そのため、近畿天皇家一元史観という古代史学界の〝宿痾〟ともいうべき「史観」から生み出された虚構であることは学理上明らかなのです。
彼らが頼りとする考古学も、出土遺構や遺物からは、そこが倭人伝に記された倭国の都(邪馬壹国)であることを証明できませんし、畿内(奈良県)に至っては弥生時代を代表するような王権の痕跡(弥生王墓、大都市遺構など)や、中国との交流を示す金属器(銅鏡、鉄製品など)の出土もほとんどありません。ですから、畿内説は文献史学からも考古学からも成立する余地のない仮説なのです。唯一の〝根拠〟らしきものは、論証を経ていない近畿天皇家一元史観(戦後型皇国史観。注⑤)という未証明の「史観」であり、それは日本の古代史学界内でしか通用しない虚構と言わざるを得ません。

 ですから、自説に不都合な古田先生の多元史観・九州王朝説、そして短里説を排斥(無いことにする。注⑥)しなければならないという宿命を、「邪馬台国」畿内説は学問的〝宿痾〟として持っているわけです。このような排斥は、理系の学界ではおよそ認められるものではありません。(おわり)

(注)
①仁藤敦史『卑弥呼と台与』山川出版社、2009年。
②大和朝廷こそが神代の昔から列島の唯一の卓越した王権と主張する『日本書紀』の歴史観を基本的に是とし、それを根拠として中国史書の「倭国」は大和朝廷のこととする歴史認識。古田武彦氏はこれを一元史観と名付けた。中小路俊逸氏はこれを一元通念とよび、「根本の部分で論証を経ていない」と批判した。
③中小路峻逸「第一回総会にむけて 古田史学の会のために」『古田史学会報』8号、1995年。
④中小路峻逸「事務局だより」『古田史学会報』11号、1995年。
⑤古賀達也「洛中洛外日記」1314話(2016/12/30)〝「戦後型皇国史観」に抗する学問〟
「『戦後型皇国史観』に抗する学問 ―古田学派の運命と使命―」『季報 唯物論研究』138号、2017年。
⑥古田武彦著『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社、1971年)はマスコミからも注目をあび、朝日新聞社主催の「邪馬台国シンポジウム」のパネラーとして古田氏に参加要請がなされたが、「古田が参加するなら自分たちは参加しない」という他の一元史観のパネラーから圧力がかかり、二度にわたり古田氏抜きでシンポジウムが開催されたこともあった。

 また、滋賀大学で開催された古代の武器に関する学会に古田氏と共に参加したことがあったが、会場からの質問を受け付けるとき、何度も挙手を続ける古田氏を司会者は無視し続けた。他の質問者もなく古田氏のみが「お願いします」と挙手を続けるのだが、司会者の無視の態度を不審に思った会場の参加者からどよめきが起こり、とうとう司会者は古田氏を指名するに至った。古田氏の質問を認めたときの司会者のこわばった表情が忘れ難い。同学会の重鎮たちの顔色を気にしながらのことだったようである。

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