第3467話 2025/04/06

倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (6)

―『穆天子伝』の発見―

 史書に見える行路里程について、〝部分里程の総和は総里程〟とする数学の公理に基づいて史書編纂者は記し、それを献上された天子を筆頭に官僚や読者もそのように理解するはずだとする、古田先生の学問の方法は、文献史学やフィロロギーでは極めて常識的なものです。その一点にこだわり抜いたことにより、古田先生は倭人伝の行路里程に記された対海国と一大国の島内陸行(島巡り半周読法)に相当する計千四百里を部分里程に含めると、部分里程の総和が総里程「万二千余里」になることを発見したわけです。

 他方、倭人伝の文面には「千四百里」という里数値が直接的に記載されているわけではないため、このような間接的に里程を読み取らなければならないような先行史料(先例)の提示は当初はできていませんでした。そのため、〝魏使が、島を半周して測った証拠がないにも拘わらず「島を半周して測ったことにすれば、総和が12000里になる」と主張するのは論理的・科学的ではない〟という批判が出されることになったものと思われます。

 しかしながら、〝部分里程の総和は総里程〟とする数学の公理は『三国志』編纂当時も現代も周知のことであり、陳寿もそのことをわかった上で帯方郡から邪馬壹国までの部分里程を行路記事中に書き続け、そして総里程も記してたわけです。ですから、部分里程が「千四百里」足らなければ、行路記事中のどこかに足し忘れた里程があるのではないかと考え続けたのが古田先生で、その他の論者はそのことについて〝思考停止〟してきたのが、古田武彦以前の〝全国「邪馬台国」探し〟論争でした。

 そのような状況が二十年ほど続いた後に、倭人伝と同様に、部分里程の総和が総里程にならないかのように見える先行史料(先例)を古田先生は見いだしました。それが『穆天子伝』(五巻)です。同書は周の第五代の天子、穆(ぼく)王の業績を記した本で、三世紀、西晋朝のときに周の戦国期の王墓から発見されました。『三国志』の著者、陳寿の時代です。同墓から「数十車」にものぼる「竹書(竹簡)」が発掘され、その中に有名な『竹書紀年』と共に、『穆天子伝』もありました。先秦の文字(篆書)で書かれた竹簡の文字を解読し、当時の文字(今文)に翻訳する作業が、西晋朝による一大プロジェクトとしてなされ、それに陳寿も加わっていたことを疑えません。少なくとも翻訳完成した『穆天子伝』を陳寿は西晋の史官として読んでいたと考えるべきでしょう。その『穆天子伝』の行路里程記事に倭人伝の先例ともいうべき記述法が採用されていたのです。(つづく)

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