評制文書の保存命令
700年以前の九州王朝の行政単位だった「評」を『日本書紀』や『万葉集』が全て「郡」に書き換えて、九州王朝の存在の隠滅を計ったことは、古田先生が度々指摘されてきたところです。
ところが、「評」を隠した大和朝廷が評制文書の保存を命じていたことをご存じでしょうか。それは「庚午年籍」(こうごねんじゃく)と呼ばれている戸籍です。九州王朝の時代、庚午の年(670年)に作られた戸籍ですが、当然、評の時代ですから、地名は○○評と記されていたはずです。この「庚午年籍」の永久保管を大和朝廷の大宝律令や養老律令で規定しているのです。その他の戸籍は30年で廃棄すると定めていますが、「庚午年籍」だけは保存せよと命じているのです。大寶二年七月にも「庚午年籍」を基本とすることを命じる詔勅が出されています(『続日本紀』)。
更に時代が下った承和六年(839)正月の時点でも、全国に「庚午年籍」の書写を命じていることから(『続日本後紀』)、9世紀においても、評制文書である「庚午年籍」が全国に存在していたことがうかがえます。
『日本書紀』や『万葉集』で、あれほど評を隠して、郡に書き直した大和朝廷が、その一方で大量の評制文書「庚午年籍」の永久保管を命じ、少なくとも9世紀まで実行されていたことは、何とも不思議です。このように、歴史は時に単純な理屈だけではわりきれない現象が起こりますが、だからこそ歴史研究はやりがいがあるのかもしれません。
参考
古田武彦講演録
大化改新と九州王朝
(『市民の古代』第6集 1984年)