第3549話 2025/11/15

多元史観で見える蝦夷国の真実 (5)

 ―津軽に逃げた安日王伝承―

 なぜ小領域の都加留(津軽)が唐の天子に紹介されたり、国名(領域名か)表記に使用された漢字に「都」のように好ましい字が使用されており、もしかすると都加留には蝦夷国全体を代表(象徴)するような「都」があったのでしょうか。実は津軽から出土している弥生の水田跡(砂沢遺跡、垂柳遺跡)などに見られるような、倭国(筑紫)と蝦夷国(津軽)との古くからの交流を示す伝承史料があります。それは秋田氏の系図と祖先伝承です。

 旧三春藩の秋田家には次のような逸話があります。そのことを紹介した「安東氏系図とその系譜意識 下国安東氏ノート~安東氏500年の歴史」(注①)より転載します。

【以下、転載】
〔安東氏の系図 エピソード〕
昭和3年8月15日大阪朝日新聞に、大正期の歴史学者で蝦夷研究家でもあった喜田貞吉が伝える話として掲載された、安藤氏系図に関するエピードがある。

 明治17年7月、参議、伊藤博文は憲法制定に先立って華族令を制定し、宮内庁は具体的な手続きのため、旧大名たちにそれぞれの系図の提出を求めた。
各大名たちの系図は、「寛永諸家系図」や「寛政重修諸家譜」などで確認されていたが、ほとんどが江戸初期の編纂で、その先祖を天皇から分かれた形の「源平藤橘」の諸姓につながっている。

 この時、三春藩主秋田映季(あきすえ)の提出した秋田系図に宮内省が困惑した。同系図では、秋田氏の先祖は安倍貞任だが、遠祖が長髄彦の兄・安日王となっている。長髄彦は日本史上初めての皇室への反逆者である。皇室の藩屛になる華族の先祖が逆賊では困る。宮内省は、その取り扱いに苦慮し、(長髄彦のない)別の系図の提出を求めた。 それに対して、秋田家の主張は「当家は神武天皇御東征以前の旧家ということをもって、家門の誇りとしている。天孫降臨以前の系図を正しく伝えているのは、出雲国造家と当家のみである。」こう答えて、自家系図の改訂を断った、という。

 喜田貞吉は、秋田家の気概をたいそう褒めていた。また、このようなことがあったということは、公式的には秋田家は否定したという。
【転載、終わり】

 同類の伝承が記された系図に「藤崎系図 安倍姓」(注②)があります。当系図は始祖を「孝元天皇」とするものですが、その後に「開化天皇―大毘古命―建沼河別命―安部将軍―安東―(後略)」と続き、「建沼河別命」と「安部将軍」の間に次の傍記があります。

「兄安日王
弟長髓彦
人皇之始。有安日長髓〈以下十一行文字不分明故付記之〉安東浦等是也。
安国
安日後孫。」
※〈〉内は細注。

 ここに見える「安東浦」とは西津軽群深浦町深浦のこととされ、この系図の子孫に前九年の役で敗死した安倍貞任がいます。これら安東(安藤)氏系図には自らの出自を「蝦夷」とする例が散見されます。また秋田家系図では、安日王は弟の長髄彦が神武天皇の東征の時に河内の日下で抵抗し殺された後、津軽に逃れ安倍一族の始祖となったとあります。(つづく)

(注)
①「安東氏系図とその系譜意識 下国安東氏ノート~安東氏500年の歴史」
https://www4.hp-ez.com/hp/andousi/page10
②「藤崎系図 安倍姓」『群書系図部集 第六』続群書類従完成会編。永正三年(1506)の書写奥書を持つ。

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